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茜色の家  作者: 大神みや
増えたもの

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16/19

春の芽吹き

四月の朝、丘の畑に小さな芽が出ていた。


去年の秋にまいた大根は、もう収穫を終えている。その隣で、先生が新しい土をならしていた。


増築した家の窓が、朝の光を受けている。新しい部屋には、まだ机も棚もない。壁と床ができただけの、静かな空間だった。


「ここ、何を植えますか」


茜が畑の端を指す。


「まだ決めていません」


「トマトはどうですか」


「去年も植えました」


「じゃあ、今年も」


先生は少し考えた。


「そうしましょう」


二人で杭を立て、細いひもを張った。家の外にも、二人で決める場所が少しずつ増えていた。


*


磯崎が担当した大工工事は、ほぼ終わっていた。壁と床はできていたが、棚の高さや窓の閉まり方、壁際の細かな納まりは、まだ茜が通いながら調整している。


磯崎も二度、家を見に来た。壁紙の継ぎ目を指でなぞり、窓を開け閉めし、床をゆっくり歩いた。


「新しい木は、しばらく動く」


茜が訊くと、磯崎は窓枠の角を見た。


「乾いたり湿ったりして、少し縮む。隙間が出たら、音を聞いてみるといい」


「音ですか」


「風が入る音と、木が鳴る音は違う」


磯崎は窓を閉める力を少し変えた。


「この家は、先生が暮らしながら直していけばいい」


先生が頭を下げる。


「ありがとうございます」


「礼は、十年後に聞かせてもらおう」


「細かいところは、茜さんが使いながら見ればいい。気になることが出たら、連絡をくれればいいよ」


それだけ言って、磯崎は帰った。茜はノートの端に、十年後の点検日を小さく書いた。


磯崎が帰ったあと、茜は新しい部屋の窓を開けた。朝は冷たかった風が、昼には少し柔らかくなっている。窓を全開にすると、畑の土の匂いが部屋へ入り、半分だけ開けると、隣の古い家から木の匂いが残った。


「同じ窓でも、開け方で変わりますね」


「季節で、使い方も変わるでしょう」


先生は、窓の下に置いた紙を押さえた。


「机は、ここから少し離した方がいいです。雨の日に窓を閉める時、手が届きますから」


「分かりました。図面に書いておきます」


茜は寸法を測り、新しい部屋の壁へ鉛筆で小さな印をつけた。部屋はまだ空っぽなのに、使う人の動きが少しずつ見えてくる。


先生はその印を見ていた。


「家ができると、直す場所がなくなると思っていました」


「完成してから分かることもあります」


「では、しばらくは茜さんに教えてもらえますね」


先生は真面目な顔で言った。


茜は返事をする前に、少しだけ笑った。


*


その日の午後、轟屋で茜は仕込みをしていた。


女将は新玉ねぎを薄く切り、主人は朝の港から届いた鯵を並べている。窓を開けると、潮の匂いに玉ねぎの甘い匂いが重なった。


「春は、切る音まで軽いねえ」


女将が言う。


「先生の家の工事も、音が変わりました」


「壁ができたからかい」


「はい。最初は外まで響いていたのに、今は家の中で返ってきます」


茜は、増築した部屋の静けさを思い出した。空っぽの部屋にも、暮らしの音が入る場所がある。


女将が、まな板の端に置いたトマトを見て言う。


「丘の家、部屋が増えたんだってねえ」


「はい。工事は終わりました」


「茜ちゃんの机も置くんだろ?」


「仕事の机です」


茜が答えると、女将はにやりと笑った。


「先生と一緒に住むのかい?」


茜の包丁が、まな板の上で止まった。


「えっ、いえ、そういう話では……」


「そんなにのんびりしてたら、先生、誰かに取られちゃうよ」


「誰かに取られるって、先生は魚じゃないんですから」


にしさんが、カウンターの奥から口を挟んだ。


「朝から何を言ってんだ」


「だって、お似合いじゃないか」


女将は笑いながら、新玉ねぎを水へさらした。


「茜ちゃんが仕事の話ばかりしているから、先生が気づかないんだよ」


「先生は、私に建築の仕事を任せてくれただけです」


「はいはい。そういうことにしとこうかねえ」


茜は耳まで熱くなった。包丁を持ち直し、玉ねぎを切る音へ意識を戻した。


*


夕方、先生は轟屋へ来た。


「今日は、早いですね」


「畑の水やりが終わったので」


先生は、茜のそばへ図面を置いた。


「新しい部屋の窓、午後は少し眩しくなります」


「カーテンをつける位置を、考えた方がいいですね」


「それと、棚の取っ手が少し固いんです。磯崎さんに相談する前に、茜さんにも見てもらえますか」


「はい。木が落ち着くまで、少し動くのかもしれません」


「茜さんの机は、窓から少し離した方が図面を見やすいと思います」


「先生は、もう机の位置まで考えているんですか」


「図面に書いてあったので」


女将が、二人の間へ湯のみを置いた。


「まあ、茜ちゃんの机のことまで気にしてるのかい」


「仕事で使う場所ですから」


先生は、本当にそれだけのつもりらしかった。


茜は笑いをこらえ、図面の端を押さえた。


「ここは、道具を出し入れしやすいように空けておきます」


「お願いします。僕の作業台も、少し動かします」


「先生の場所を狭くしませんか」


「家の中で、使う場所を分ければ大丈夫です」


にしさんが、焼き魚の皿を置きながら言った。


「分けるだけで済むのかねえ」


「はい。図面では」


先生が答えると、にしさんは呆れたように鼻を鳴らした。


「図面の外も見ろよ」


先生は少し考えた。


「図面の外は、茜さんに教えてもらいます」


茜は、思わず先生を見た。


女将が小さく笑った。


「ほらねえ」


「何がですか」


「何でもないよ」


女将は、茜が切った新玉ねぎを小皿へ分けた。


「先生、これ持って帰るかい」


「僕がですか」


「茜ちゃんが切ったんだよ」


「では、いただきます」


先生は小皿を受け取った。にしさんが、聞こえるように咳払いをする。


「仕事の話だけじゃ、味が分からなくなるぞ」


「味は、分かります」


先生は玉ねぎを一口食べた。


「甘いです」


「ほらねえ」


女将が茜を見た。


「何がですか」


「何でもないって言っただろ」


茜はまた耳が熱くなり、空いた皿を厨房へ運んだ。


*


店を出る頃、商店街の八百屋には、まだ新玉ねぎの箱が残っていた。茜は一つ買おうとして、朝に先生が畑へ杭を立てていたことを思い出した。


「トマトを植えるなら、玉ねぎも近くにあると便利かもしれません」


翌朝、先生へ伝えるつもりで、茜は玉ねぎを袋へ入れた。仕事の話をするための土産だったが、女将に見られたら、また何か言われそうだった。


その夜、茜はアパートへ戻った。


机の上に、丘の家の新しい部屋を描いた図面を広げる。そこへ、自分の机と本棚の位置を書き入れた。


先生の作業台との間には、人が通れる幅を残す。窓の下には、道具を出し入れしやすい棚を描いた。


茜は、図面の端に小さく予定を書いた。


〈次の休み 窓と棚の位置を確認〉


その文字を見て、少しだけ笑った。仕事の予定なのに、先生の家へ行く日を待つ予定でもあった。


丘の家では、先生が新しい部屋の床を掃いていた。壁際に置かれた段ボールの中から、茜の鉛筆が一本だけ転がっている。


先生はそれを拾い、段ボールへ戻した。


「明日、返しておきます」


誰もいない部屋で、そう言ってから、返す必要がないことに気づいた。


窓の外で、春の芽が風に揺れている。

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