春の芽吹き
四月の朝、丘の畑に小さな芽が出ていた。
去年の秋にまいた大根は、もう収穫を終えている。その隣で、先生が新しい土をならしていた。
増築した家の窓が、朝の光を受けている。新しい部屋には、まだ机も棚もない。壁と床ができただけの、静かな空間だった。
「ここ、何を植えますか」
茜が畑の端を指す。
「まだ決めていません」
「トマトはどうですか」
「去年も植えました」
「じゃあ、今年も」
先生は少し考えた。
「そうしましょう」
二人で杭を立て、細いひもを張った。家の外にも、二人で決める場所が少しずつ増えていた。
*
磯崎が担当した大工工事は、ほぼ終わっていた。壁と床はできていたが、棚の高さや窓の閉まり方、壁際の細かな納まりは、まだ茜が通いながら調整している。
磯崎も二度、家を見に来た。壁紙の継ぎ目を指でなぞり、窓を開け閉めし、床をゆっくり歩いた。
「新しい木は、しばらく動く」
茜が訊くと、磯崎は窓枠の角を見た。
「乾いたり湿ったりして、少し縮む。隙間が出たら、音を聞いてみるといい」
「音ですか」
「風が入る音と、木が鳴る音は違う」
磯崎は窓を閉める力を少し変えた。
「この家は、先生が暮らしながら直していけばいい」
先生が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼は、十年後に聞かせてもらおう」
「細かいところは、茜さんが使いながら見ればいい。気になることが出たら、連絡をくれればいいよ」
それだけ言って、磯崎は帰った。茜はノートの端に、十年後の点検日を小さく書いた。
磯崎が帰ったあと、茜は新しい部屋の窓を開けた。朝は冷たかった風が、昼には少し柔らかくなっている。窓を全開にすると、畑の土の匂いが部屋へ入り、半分だけ開けると、隣の古い家から木の匂いが残った。
「同じ窓でも、開け方で変わりますね」
「季節で、使い方も変わるでしょう」
先生は、窓の下に置いた紙を押さえた。
「机は、ここから少し離した方がいいです。雨の日に窓を閉める時、手が届きますから」
「分かりました。図面に書いておきます」
茜は寸法を測り、新しい部屋の壁へ鉛筆で小さな印をつけた。部屋はまだ空っぽなのに、使う人の動きが少しずつ見えてくる。
先生はその印を見ていた。
「家ができると、直す場所がなくなると思っていました」
「完成してから分かることもあります」
「では、しばらくは茜さんに教えてもらえますね」
先生は真面目な顔で言った。
茜は返事をする前に、少しだけ笑った。
*
その日の午後、轟屋で茜は仕込みをしていた。
女将は新玉ねぎを薄く切り、主人は朝の港から届いた鯵を並べている。窓を開けると、潮の匂いに玉ねぎの甘い匂いが重なった。
「春は、切る音まで軽いねえ」
女将が言う。
「先生の家の工事も、音が変わりました」
「壁ができたからかい」
「はい。最初は外まで響いていたのに、今は家の中で返ってきます」
茜は、増築した部屋の静けさを思い出した。空っぽの部屋にも、暮らしの音が入る場所がある。
女将が、まな板の端に置いたトマトを見て言う。
「丘の家、部屋が増えたんだってねえ」
「はい。工事は終わりました」
「茜ちゃんの机も置くんだろ?」
「仕事の机です」
茜が答えると、女将はにやりと笑った。
「先生と一緒に住むのかい?」
茜の包丁が、まな板の上で止まった。
「えっ、いえ、そういう話では……」
「そんなにのんびりしてたら、先生、誰かに取られちゃうよ」
「誰かに取られるって、先生は魚じゃないんですから」
にしさんが、カウンターの奥から口を挟んだ。
「朝から何を言ってんだ」
「だって、お似合いじゃないか」
女将は笑いながら、新玉ねぎを水へさらした。
「茜ちゃんが仕事の話ばかりしているから、先生が気づかないんだよ」
「先生は、私に建築の仕事を任せてくれただけです」
「はいはい。そういうことにしとこうかねえ」
茜は耳まで熱くなった。包丁を持ち直し、玉ねぎを切る音へ意識を戻した。
*
夕方、先生は轟屋へ来た。
「今日は、早いですね」
「畑の水やりが終わったので」
先生は、茜のそばへ図面を置いた。
「新しい部屋の窓、午後は少し眩しくなります」
「カーテンをつける位置を、考えた方がいいですね」
「それと、棚の取っ手が少し固いんです。磯崎さんに相談する前に、茜さんにも見てもらえますか」
「はい。木が落ち着くまで、少し動くのかもしれません」
「茜さんの机は、窓から少し離した方が図面を見やすいと思います」
「先生は、もう机の位置まで考えているんですか」
「図面に書いてあったので」
女将が、二人の間へ湯のみを置いた。
「まあ、茜ちゃんの机のことまで気にしてるのかい」
「仕事で使う場所ですから」
先生は、本当にそれだけのつもりらしかった。
茜は笑いをこらえ、図面の端を押さえた。
「ここは、道具を出し入れしやすいように空けておきます」
「お願いします。僕の作業台も、少し動かします」
「先生の場所を狭くしませんか」
「家の中で、使う場所を分ければ大丈夫です」
にしさんが、焼き魚の皿を置きながら言った。
「分けるだけで済むのかねえ」
「はい。図面では」
先生が答えると、にしさんは呆れたように鼻を鳴らした。
「図面の外も見ろよ」
先生は少し考えた。
「図面の外は、茜さんに教えてもらいます」
茜は、思わず先生を見た。
女将が小さく笑った。
「ほらねえ」
「何がですか」
「何でもないよ」
女将は、茜が切った新玉ねぎを小皿へ分けた。
「先生、これ持って帰るかい」
「僕がですか」
「茜ちゃんが切ったんだよ」
「では、いただきます」
先生は小皿を受け取った。にしさんが、聞こえるように咳払いをする。
「仕事の話だけじゃ、味が分からなくなるぞ」
「味は、分かります」
先生は玉ねぎを一口食べた。
「甘いです」
「ほらねえ」
女将が茜を見た。
「何がですか」
「何でもないって言っただろ」
茜はまた耳が熱くなり、空いた皿を厨房へ運んだ。
*
店を出る頃、商店街の八百屋には、まだ新玉ねぎの箱が残っていた。茜は一つ買おうとして、朝に先生が畑へ杭を立てていたことを思い出した。
「トマトを植えるなら、玉ねぎも近くにあると便利かもしれません」
翌朝、先生へ伝えるつもりで、茜は玉ねぎを袋へ入れた。仕事の話をするための土産だったが、女将に見られたら、また何か言われそうだった。
その夜、茜はアパートへ戻った。
机の上に、丘の家の新しい部屋を描いた図面を広げる。そこへ、自分の机と本棚の位置を書き入れた。
先生の作業台との間には、人が通れる幅を残す。窓の下には、道具を出し入れしやすい棚を描いた。
茜は、図面の端に小さく予定を書いた。
〈次の休み 窓と棚の位置を確認〉
その文字を見て、少しだけ笑った。仕事の予定なのに、先生の家へ行く日を待つ予定でもあった。
丘の家では、先生が新しい部屋の床を掃いていた。壁際に置かれた段ボールの中から、茜の鉛筆が一本だけ転がっている。
先生はそれを拾い、段ボールへ戻した。
「明日、返しておきます」
誰もいない部屋で、そう言ってから、返す必要がないことに気づいた。
窓の外で、春の芽が風に揺れている。




