二人分の茶碗
十二月に入ると、丘の上の朝は白かった。
工事中の家の脇に霜が降りている。新しい部屋の床が張られ、壁の下地が見え始めていた。
大工道具の音は、朝のうちは低く、昼になると少しずつ近くなった。古い家と新しい部屋の間には、まだ人が一人通れるほどの隙間がある。そこを風が抜けるたび、床に置いた木くずが細く動いた。
茜はアパートから、小さな段ボールを一つ運んできた。
「仕事道具ですか。ここへ置いても大丈夫です」
先生が訊く。
「全部は置きません。これは、ここで使う分だけです」
中には定規とスケール、使い込んだ鉛筆、それから学生の頃から使っている製図用の三角定規が入っていた。
「アパートに置いてある分もあります」
「では、ここでは使う分だけでいいですね」
「はい」
茜は、新しくできる机の場所に段ボールを置いた。
まだ壁もない。けれど、午後になればここへ光が入ることを、図面は教えてくれる。
茜は段ボールの蓋を閉じた。
「ここで図面を広げるなら、作業台の向きも変えた方がよさそうです」
「先生の作業台を取ってしまいませんか」
「今の台は、古い台所の方へ寄せられます。新しい部屋は、茜さんの作業場所を確保しましょう」
段ボール一つでも、職人の動線と先生の作業場所を考え直す必要があった。
*
昼休み、磯崎たちは家の脇で火を焚いた。
女将が持たせた白菜と豚肉の鍋を、茜が温める。にしさんのところから届いたサバも、主人が焼いてくれた。
「冬は、鍋が一番だな」
磯崎が椀を受け取る。
「工事中でも、あったかい物が食べられる」
「女将さんのおかげです」
茜が言うと、磯崎は白菜を一口食べた。
「茜さんも、だいぶ慣れてきたね」
「私は温めただけです」
「昨日より火を弱くしていたね」
茜は少し驚いた。
「わかりますか」
「食べれば、分かるよ」
磯崎は鍋の蓋を少しずらし、湯気の逃げ方を見た。
「火を止めてから、蓋をすぐ戻さなかったな」
「はい。白菜が柔らかくなりすぎないように」
「それで大丈夫」
短い言葉だったが、茜には十分だった。
「明日の賄いも、火加減を見てもらえるかい」
磯崎は鍋の蓋を戻した。
「私が、ですか」
「今日と同じようにやってくれれば、大丈夫だよ」
茜は鍋のそばへ置いた木片に、火を弱める時刻を書いた。次に同じ鍋を温める人が迷わないように、蓋を開ける時間も添える。
「こういう記録を残しておけば、私がいない時も使えます」
「そうだね。家も仕事も、使う人が変わると見え方が変わるから」
磯崎は木片を受け取り、鍋の脇へ立てかけた。
先生が、壁の下地を指した。
「この柱は、予定より少し内側ですか」
磯崎は立ち上がり、柱へ手を当てた。
「床の梁が、図面より三分ずれていたから、ここで合わせた」
「図面を変えたんですか」
茜が訊く。
「線を変えたんじゃないよ。家の方へ、少し合わせただけだ」
磯崎はそれだけ言って、鍋の椀へ戻った。
先生は柱を見た。
「任せてよかったです」
磯崎は返事の代わりに白菜を食べた。
先生は鍋の蓋を取り、白菜をよそった。
自分の椀へ入れた後、もう一つの椀へも同じくらい入れる。
「茜さん」
「はい」
「これを」
茜は椀を受け取った。
先生が自分から何かをよそうのは、珍しかった。
それを言うのはやめて、茜は箸を取った。
昼休みが終わると、茜は段ボールを新しい部屋の隅へ移した。職人の動線をふさがないよう、壁際から少し離して置く。
「そこなら、材料を運ぶ邪魔になりません」
「ありがとうございます」
先生が言った。
「ここに置くのは構いません。工事の間、ここで使う分なら」
「はい。図面を広げる場所も、確保しておきます」
*
夕方、先生は轟屋へ寄った。
女将は洗い終えた茶碗を棚へ戻している。
「先生、今日は早いね」
「少し、買いたい物があって」
「うちは酒とご飯の店だよ」
先生は棚を見た。
そこには、白い茶碗が二つ並んでいる。
「その茶碗、ありますか」
女将は先生の視線の先を見た。
「あるけど。今の家には一つで足りるって言ってなかった?」
「二つ、お願いします」
女将は何も言わず、棚から同じ茶碗を二つ下ろした。
「工事の昼に使うためかい」
「それもあります」
女将は、先生の顔を見て笑った。
「二つあると、いちいち茶碗を取りに戻らなくて済むからね」
たけさんが、茶碗の入った紙袋を見ていた。
「茶碗なら、商店街の方が安いぞ」
「轟屋で使っている物が、手に馴染んでいたので」
「同じ物を使うと、店の飯を思い出すからか」
先生は少し考えた。
「工事の昼に、使いやすいと思いました」
たけさんは、口元だけで笑った。
「それなら、二つで足りるな」
*
丘の家へ戻ると、茜は新しい部屋の寸法を手帳へ書いていた。
先生は紙袋を置く。
「茶碗を買ってきました」
茜が顔を上げた。
「二つ?」
「工事の昼に使うためです」
「二つあると、便利ですね」
茜は紙袋の中を見た。
飾り気のない、白い茶碗だった。
茜は茶碗を一つ取り出した。
手のひらに、ちょうど収まる大きさだった。
「工事の日は、ここで食べることもありますね」
「はい。先生も、ここで食べます」
「それなら、二つあった方が便利です」
茜は笑った。
工事中の家には、まだ壁のない場所がある。
そこへ、二人分の茶碗が先に置かれた。
その夜、茜はアパートへ戻り、台所の棚を開けた。自分の茶碗は一つだけだった。工事の日に使う二つ目の茶碗を、どこへ置くかを考えた。
丘の家では、先生が買った茶碗を棚へ並べた。翌日の昼、二人分の食事をよそうための場所を空けておく。
先生はそれを確かめてから、灯りを消した。




