着工
初冬の風が、丘の畑を低く渡っていた。
大根の葉は大きくなり、白菜は外側の葉を丸め始めている。五坪の家の横では、台風で荒れた畑が、まだ元の姿に戻っていなかった。雨で流れた土が畑の端へ小さく寄っている。
そこへ、磯崎が巻き尺を持って立っている。
「この辺りまでにしよう」
地面に、白い石灰の線を引いた。
「畑は、これ以上削らない方がいい」
茜は図面を抱え、線の外側から見た。
五坪の家に、もう五坪ほどをつなぐ。今の台所は残す。新しくつくるのは、小さな部屋と、机を置ける場所、少し広い風呂の脱衣所だった。
「屋上へ上がる階段は、このままです」
茜が言う。
「窓も、夕陽の方は動かさない」
先生は、図面の端を指で押さえている。
磯崎は図面を見て、ゆっくりうなずいた。
「最初の家を残して、足す形だね」
「はい」
「古い家を残して足すなら、取り合いを丁寧に見よう」
茜は少し緊張した。
「でも、先生の暮らし方を、急に変えたくなくて」
磯崎は図面と家を見比べ、石灰の線を靴先で確かめた。
「この納まりなら、夕陽の窓も残せる」
先生が小さく息を吐いた。
「お願いします」
「大丈夫だ」
磯崎は茜へ鉛筆を渡した。
「古い土台を残す範囲、線で示してみるかい」
茜は図面と土台を見比べ、石灰の線を少しだけ内側へ引き直した。
「ここまでなら、古い家を傷めずに済むと思います」
磯崎は線の端を靴先で確かめた。
「じゃあ、今日はその線を基準にしよう」
茜は、胸の奥で小さく息を吐いた。
磯崎は、線の端を写真に撮った。
「工事の途中で動いた時、最初の位置が分かるようにしておく」
「完成したら、見えなくなる場所ですよね」
「見えなくなるから、今のうちに残すんだよ」
茜も自分の携帯で、家と石灰の線を一緒に撮った。図面だけでは残らない現場の距離が、画面の中に収まった。
*
工事が始まった朝、丘の上には木の匂いがした。
磯崎が柱の位置を決め、二人の職人が基礎の周りを掘る。先生は家の前に置いていた鉢を畑の端へ移した。
新しい柱を立てる前に、磯崎は古い家の土台へ手を置いた。金槌の柄で木を軽く叩き、音を聞く。
「ここは、まだ使えそうだ」
職人が首をかしげた。
「見た目は、少し傷んでいますが」
「表面の傷みだね。中まで替えると、古い家の力のかかり方が変わる」
磯崎は先生へ説明した。
「新しい柱は、ここへ添わせるのがよさそうだ。古い方に無理をさせない」
先生は土台を見た。
「そこまで分かるものですか」
「音を聞くと、だいたい見当がつく」
短い返事だった。先生はそれ以上尋ねず、鉢を移す作業へ戻った。茜も隣の鉢へ手を伸ばした。
「重くないですか」
茜が近づく。
「大丈夫です」
「その言葉、少し減らした方がいいと思います」
先生は鉢を持ったまま、少し困ったように笑った。
「では、これはお願いします」
小さな鉢を一つ、茜へ渡した。
茜は受け取り、畑の端に置いた。
それだけのことだった。
けれど、先生が自分から手渡したことを、茜は何も言わずに覚えておいた。
昼前、たけさんが軽トラックで現れた。荷台には断熱材と、新しい窓枠が積まれている。
「道が細いから、これ以上大きい車は無理だ」
「ありがとうございます」
先生が頭を下げる。
「礼は、家ができてから聞く」
たけさんは茜の図面を見た。
「ちゃんと先生の家のままだな」
「はい。増やすけど、変えすぎないように」
「それが一番難しいんだよ」
たけさんはそう言って、窓枠を職人へ渡した。
「茜ちゃん、今日は何時までいられる」
「夕方までです。轟屋の仕込みがあります」
「先生は?」
「僕は、家にいます」
「ずっと見ていると、仕事の邪魔になるぞ」
先生は少し考えた。
「では、昼過ぎに一度、店へ行きます」
茜は図面から顔を上げた。
「一人で決めなくていいですよ。工事の人に任せる時間も必要です」
「そうですね」
たけさんは、二人を見比べた。
「家を足すのは、壁だけじゃないからな。時間の使い方も変わる」
その言葉を残して、たけさんは荷台の確認へ戻った。
*
昼になると、茜は轟屋から借りた大きな鍋を火にかけた。
女将がつくった大根の煮物を温め、炊き込みご飯をよそう。にしさんが朝の港で分けてくれたサバは、主人が生姜を利かせて煮てくれた。
「大工さん、休憩です」
茜が声をかけると、磯崎は工具を置いた。
職人たちは、風の当たらない家の脇へ腰を下ろす。
「あったかいな」
「大根、よく染みてる」
茜は湯気の立つ椀を配った。
先生にも一つ渡す。
「先生の分です」
「ありがとうございます」
磯崎が大根を一口食べてから、茜を見た。
「茜さんが煮たのかい」
「女将さんがつくったものを、温めただけです」
「温めるのも、ちゃんと仕事だよ」
茜は少し驚いた。
磯崎はそれ以上、何も言わずに大根を食べた。
先生は炊き込みご飯を口にして、家の中から聞こえる金槌の音へ耳を向けた。
「うるさくないですか」
茜が訊く。
「前なら、気になったかもしれません」
「今は?」
先生は少し考えた。
「家が、呼吸している音のように聞こえます」
茜は、椀を持ったまま先生を見た。
磯崎が小さく笑った。
「家は、人が手を入れている間も変わっていくからね」
午後、古い壁の一部が外された。
五坪の家の中が、一度だけ外の光に大きく開く。
先生はその前に立ち、何も言わなかった。
「ここに、茜さんの机が来ます」
先生が言った。
「まだ、置くと決まったわけではありません」
「図面では、そうなっています」
「図面は、暮らしてみて変わることがあります」
「では、暮らしてから変えましょう」
茜は、返事の代わりに外された壁の断面を見た。古い木の匂いと、新しい木の匂いが混じっている。
茜は外された壁の断面へ手を近づけた。古い木の匂いに、新しい木の匂いが混じっている。
夕方、職人たちが帰る頃には、新しい柱が一本だけ立っていた。
五坪の家の横で、それはまだ家には見えない。
ただ、空へ向かうまっすぐな木だった。
先生は柱を見上げた。
「明日も、音がしますね」
「はい」
「茜さんは、来ますか」
「来てもいいんですか」
「図面を描いた人がいないと、困るでしょう」
茜は笑った。
「じゃあ、来ます」
「帰りは、店へ戻るんですね」
「はい。今日は遅番です」
「分かりました」
先生は、茜が坂を下りるのを見送った。以前なら、家へ戻れば一人の時間になった。今は、工事の音が止んだあとにも、次に誰が来るかを考えてしまう。
茜は坂の途中で一度だけ振り返った。五坪の家の横に立つ柱は、夕暮れの中でも見えた。
まだ一緒に暮らしてはいない。けれど、家の予定の中に、自分の時間が置かれ始めている。
初冬の空は、早く暗くなっていった。
家の横に立った一本の柱だけが、夕方の光を少し残していた。




