増築
台風が去った朝、丘の上には折れた枝が散っていた。
海はまだ白く泡立ち、町の屋根には濡れた葉が張りついている。轟屋では朝から炊き出しのように飯を炊き、停電した家へ分けるおにぎりを握っていた。
先生は店へ顔を出したあと、にしさんに促されて丘へ戻った。茜も仕事の区切りをつけ、昼前に坂を上がった。
朝のうちに、茜は換気口の周りを撮影し、水の跡を鉛筆で囲んでいた。応急処置に使った布とビニールは外さず、どこから水が入ったか分かるようにしてある。
「先に記録しておきました」
茜が写真を見せると、先生はうなずいた。
「昨夜のままにしておいた方が、分かりやすいと思ったので」
たけさんの車が家の前へ止まり、道具箱を提げた小柄な男が降りてきた。
「磯崎さんだ」
この家を建てた大工だった。
磯崎は挨拶もそこそこに、外壁を押し、換気口をのぞき、屋根の端を長く見上げた。
「雨が回ったのは、ここだけだね。まず、入った道を確かめよう」
「直りますか」
先生が訊く。
「直るよ。換気口の周りをやり直せば大丈夫」
磯崎は茜の写真を受け取り、濡れた壁と見比べた。
「この線を引いたのは、あなたかい」
「はい。乾いている所と、まだ濡れている所を分けました」
「見やすいね。外してみよう」
茜は、磯崎に言われた通り、ビニールの端をゆっくり外した。壁の内側に、細い水の跡が残っている。
「ここから、下へ流れています」
「よく見ているね」
磯崎は短く言った。
茜は、濡れた壁へ手を置いた。
「私が、直します」
先生が茜を見る。
「お願いします」
「壊れた所を見て、もう一度使えるようにします。先生の家なので、先生が安心できる形にしたいです」
「僕は、茜さんに修理を任せてみたいです」
磯崎は、壁の内側をもう一度確かめた。
「直し方は見えた。材料と施工は私が見るよ」
「私も、手を動かしていいですか」
「もちろん。分からないところは、その場で聞けばいい」
「お願いします」
磯崎はうなずいた。
「図面どおりにいかない所が出ても、現場で考えればいい。家は、そういうものだからね」
茜は、磯崎が自分の手を止めずに、隣で見てくれることに気づいた。
台風の夜の換気口へ、磯崎が目を向ける。
「中から押さえたのは、茜さんかい」
「私です」
茜が答えると、磯崎はビニールの端を指で触った。
「水の道を見たんだね」
「ここから入ってると思って」
「応急処置としては、ちょうどいいよ。水の道を止めて、あとで外せる」
茜は返事ができなかった。
磯崎は、茜が見ていた換気口の周りをもう一度確かめた。
「水の跡を見たのはいい。濡れた場所と乾いた場所で、入った道が分かる」
茜はノートを開いた。
「覚えておきます」
「次に同じことがあった時、助けになるよ」
先生が新しい金具を手に取った。
「この形で、元の壁に合いますか」
「合うように手を入れれば大丈夫。市販のものも、そのまま使わなくていい」
磯崎は金具を壁へ当て、取り付ける位置を鉛筆で印した。
茜は、その手元を見ながら、家に合わせて直す仕事の細かさを学んでいった。
*
昼前、にしさんの軽トラックが資材を積んで上がってきた。
「次は呼べ」
板を担ぎながら、にしさんは先生へ言う。
「茜が一人で走ってくる前に」
先生は、少し遅れてうなずいた。
「はい」
にしさんは先生へ板を渡しながら、低い声で言った。
「昨日、茜が来ると言った時、俺は止めた」
先生が顔を上げる。
「危ないと思ったからです」
「分かってる。だが、行かせたのは俺だ」
にしさんは板を壁へ立てかけた。
「一人で何とかしようとする人間を、二人に増やしただけかもしれん」
「二人に増えたのは、悪いことではないと思います」
先生が言うと、にしさんは一瞬だけ目を細めた。
「なら、増えた分の責任を持て」
「はい」
茜は、二人のやり取りを聞きながら、道具を拭いた。
茜は磯崎のそばで、道具を渡した。
「金槌」
「はい」
「短いねじ」
「これですか」
磯崎は受け取り、うなずく。
「建てるのは、好きかい」
「好きです」
「好きなら、慌てずに見ておくといい」
磯崎は屋根の端を直しながら言った。
「壊れた所も、古い所も見て、残すか変えるか一緒に考えればいい」
「私が決めてもいいんですか」
「決めてみるといい。気になるところは、私が一緒に見るよ」
日が傾く頃、修理は終わった。
磯崎は道具箱を閉じる。
「乾いたら、もう一度水の跡を見てみよう」
磯崎は茜へ言った。
「気になるところが出たら、また持っておいで。いっしょに考えればいい」
「はい」
茜は、その短い言葉をノートの端に書いた。
たけさんは磯崎を車へ乗せ、にしさんも荷台へ上がった。
「お前も、一人で何とかするなよ」
にしさんは茜へ言った。
「はい」
車が坂を下りていくと、家の前は急に静かになった。修理した金具だけが、新しい色で光っている。
先生はその光を見てから、玄関の戸を閉めた。
*
夕方、先生は屋上へ上がった。
茜も後に続く。
畑の土はまだ濡れている。夕陽が、町の向こうへゆっくり沈んでいった。
「茜さん、相談があります」
「はい」
先生は海を見たまま、言葉を探した。
「この家を直すなら、もう少し大きくしたいと思っています」
茜は、先生の横顔を見た。
「茜さんが来るようになって、机や道具を置く場所が必要だと感じました。昨夜、二人でいると、今の家では足りないと思ったんです」
「私も、そう思いました」
「茜さんに、どうしたらいいか考えてもらえませんか」
「私に、ですか」
「はい。できますか」
茜は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「やりたいです。先生から依頼してもらえるなら、嬉しいです」
「依頼、というほどのことでは」
「建築の仕事として、任せてもらえるということですよね」
先生は、少し考えてからうなずいた。
「お願いします」
先生は夕陽の方を見たまま、しばらく黙っていた。
「ここへ来た時は、人と関わらずに暮らすつもりでした。一人分の家なら、それで足りると思っていたんです」
茜は、黙って聞いた。
「でも、轟屋へ行くようになって、町の人に声をかけられて、茜さんが来るようになって。必要なものが、少しずつ変わりました」
茜の目元が熱くなった。
「私も、海宮へ来て変わりました。建築を続けたいと思えたのは、先生の家を見たからです」
「先生と出会えてよかったです。この家に関われるなら、建築を続けてきてよかったと、もう一度思えます」
先生は、茜の方を向いた。
「人も家も、使っているうちに変わるものなんですね」
先生は、茜の目元を見た。
「……泣いていますか」
茜は目元をぬぐった。
「風が強いだけです」
「そうですか」
二人の間に、夕陽の赤い光が落ちた。
「修理が終わったら、磯崎さんに相談しましょう」
「はい。二人で考えた形を、伝えます」
茜は、先生の隣に立った。
屋上の下では、台風で濡れた家が、静かに乾き始めていた。




