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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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12/19

台風の夜

台風は、夕方から海宮へ近づいた。


昼のうちに轟屋は早じまいになった。女将は店先の鉢を中へ入れ、主人は雨戸を閉めて回る。


「先生には、連絡したのかい」


女将が茜へ訊いた。


「さっき、しました。でも、出ません」


「畑か家の周りを見てるんだろう」


にしさんは、窓の外を見た。


雨はまだ細い。けれど、風が看板を大きく揺らしている。


「あの家、丘の上ですよね」


茜が言う。


「そうだ」


「風、強いですよね」


「強い」


にしさんの返事は短かった。


茜は携帯を見た。先生から返事はない。


*


その頃、先生は家の外にいた。


屋根の端にかけていた雨どいが、風で外れかけている。脚立を出し、手を伸ばした。


雨が顔に当たる。


金具を一つ締め直した時、突風が吹いた。


脚立が揺れる。


先生は壁へ手をつき、しばらく動かなかった。


家の中では、窓が鳴っている。


一人で暮らすには、それで足りた。


そう思って建てた家だった。


風の日に雨どいを直す人も、自分一人であればいいと思っていた。


先生は脚立を畳み、家の中へ入った。


携帯を見ると、不在着信が一件あった。


茜からだった。


かけ直そうとした瞬間、家が大きく揺れた。


天井の灯りが消える。


停電だった。


*


轟屋に、にしさんの軽トラックが止まった。


「様子を見てくる」


にしさんが言った。


「先生のところ?」


女将が訊く。


「丘の上の見回りだ。ついでだ」


茜はすぐに立ち上がった。


「私も行きます」


「駄目だ」


にしさんが、すぐに言った。


「でも」


「店にいろ」


「先生の家の中が、どうなってるか分かりません」


「だからって、お前が行って何ができる」


茜は言い返せなかった。


女将が、茜の顔を見た。


「雨どいと屋根の金具なら、茜ちゃんの方が分かるよ」


にしさんが女将を見る。


「おい」


「一人で行かせるんじゃない。あんたが連れていきな」


にしさんは大きく息を吐いた。


「危なけりゃ、すぐ戻る」


「はい」


茜は雨合羽を着た。


女将が懐中電灯を渡す。


「先生に、無茶するなって言っとくれ」


*


丘へ上がる道は、雨水で光っていた。


軽トラックはゆっくり進む。ワイパーが絶えず動き、風が車体を叩く。


家の前に着くと、先生は玄関の脇に立っていた。


懐中電灯を持ち、外壁を見ている。


「先生!」


茜が車から降りる。


先生は驚いた顔をした。


「どうして」


「連絡がつかないからです」


にしさんも車を降りた。


「雨どいは」


「一度、締めました。今は大丈夫です」


「中は」


「停電しています。屋根の一部が鳴るので、見に」


「見に行くな」


にしさんの声が、風の中でもよく通った。


「屋根に上がるな。今は何もできん」


先生は答えなかった。


茜が、玄関のそばの金具を見る。


さっき締め直したのだろう。ねじの頭が新しく光っている。


「先生、家の中を見せてください」


「茜さんまで」


「屋根には上がりません」


先生は少し迷ってから、戸を開けた。


家の中は暗かった。


懐中電灯の光が、壁と床を細く照らす。窓際に雨水が少したまっている。小上がりの端からも、ぽた、ぽたと水が落ちていた。


茜は光を上へ向ける。


「ここ、屋根じゃなくて、換気口の周りかもしれません」


「直せますか」


「今は、応急処置だけです」


茜は先生の工具箱を借り、棚にあった布とビニールを集めた。水の落ちる所に容器を置き、換気口の下をふさぐ。


先生は言われた通りに懐中電灯を持った。


「ここを押さえてください」


「はい」


「もう少し右です」


「ここですか」


「そこです」


風の音の中で、二人の声だけが近かった。


にしさんは玄関の外から様子を見ていたが、やがて言った。


「水、入らなくなったか」


「少し、ましです」


「なら、俺は下の家も見る。十分したら戻れ」


先生が玄関まで出る。


「ありがとうございます」


「礼はいい。屋根に上がるなよ」


にしさんは軽トラックへ戻った。


車の音が、雨の向こうへ遠ざかる。


*


家の中には、まだ水の落ちる音が残っていた。


茜は濡れた髪を押さえ、壁際に座った。


先生は小さなガスコンロへ鍋をかけた。


「お湯を沸かします」


「こんな時に?」


「冷えるので」


火がつくと、部屋に小さな明かりが増えた。


先生は湯のみを二つ出す。


「すみません」


「何がですか」


「茜さんまで、来させてしまって」


「私が来たかったんです」


先生は、湯のみへお湯を注いだ。


「でも、危なかった」


「にしさんが一緒でした」


「それでも」


茜は湯のみを両手で持った。


「先生も、危なかったですよね」


先生は何も言わない。


「一人で直そうとしてたんじゃないですか」


「誰かを呼ぶほどではないと思っていました」


「呼んでください」


茜の声が、少し大きくなった。


すぐに、雨の音へ紛れる。


「一人で暮らしていても、一人で何でもしなくていいです」


先生は湯のみを見たまま、動かなかった。


「僕は、その方がいいと思っていたので」


「前は、ですか」


先生は、ゆっくり顔を上げた。


「今も、そう思っているつもりでした」


窓の外で、風が鳴る。


小さな家は、風を受けながら立っている。


先生は、茜の手元を見た。濡れた袖。泥のついた指先。


「来てくれて、助かりました」


茜は、少しだけ笑った。


「どういたしまして」


「明るくなったら、換気口の周りを点検します」


「私も行きます」


「轟屋の仕事があるんじゃないですか」


「午前は店です。午後なら、時間を見て」


先生は、すぐに返事をしなかった。


「無理はしないでください」


「先生もです」


「はい」


短い返事だったが、今度は逃げるようには聞こえなかった。


外で、にしさんの車が戻ってくる音がした。玄関を開けると、にしさんは傘をたたみながら言った。


「下の道は通れる。店も大丈夫だ」


「ありがとうございます」


「だから礼はいい。二人とも、朝になったら明るいところで見直せ」


にしさんは、家の中を一度見回した。


「この家、雨の音がよく響くな」


「屋根が薄いので」


先生が答える。


「薄いんじゃなく、軽くつくったんだろ。こういう家は、風の日には誰かが様子を見てやらなきゃならん」


その言葉に、先生は黙った。


にしさんは茜へ視線を移した。


「明日の朝、店へ来られるか」


「はい」


「先生は、店で飯を食え。家の片づけは、そのあとだ」


先生が何か言おうとしたが、にしさんは手を上げた。


「反対するなら、雨どいを一人で直したことを女将に言うぞ」


先生は口を閉じた。


茜は思わず笑った。


その夜、雨が弱くなるまで、二人は小さな家で湯のみを手に、雨音を聞いていた。


天井から落ちる水は、もう容器の中だけに収まっていた。


夜が明ける前、風はようやく海の方へ抜けていった。


茜は濡れた雨合羽を玄関に掛け、工具を元の箱へ戻した。先生が戸を開けると、雲の切れ間から薄い朝の光が差し込んだ。


「アパートまで送ります」


「大丈夫です。明るくなってきましたし、ここからなら一人で帰れます」


「では、途中まで」


二人は家の前の坂を少しだけ下りた。道には折れた枝と葉が散っている。


「昨日、来てくれてありがとうございました」


「先生も、店へ来てください」


「はい」


それだけを確かめて、茜は先に坂を下りた。


先生は、姿が見えなくなってから家へ戻った。濡れた床を拭きながら、今まで一人で足りると思っていた家の広さを、初めて測り直していた。


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