台風の夜
台風は、夕方から海宮へ近づいた。
昼のうちに轟屋は早じまいになった。女将は店先の鉢を中へ入れ、主人は雨戸を閉めて回る。
「先生には、連絡したのかい」
女将が茜へ訊いた。
「さっき、しました。でも、出ません」
「畑か家の周りを見てるんだろう」
にしさんは、窓の外を見た。
雨はまだ細い。けれど、風が看板を大きく揺らしている。
「あの家、丘の上ですよね」
茜が言う。
「そうだ」
「風、強いですよね」
「強い」
にしさんの返事は短かった。
茜は携帯を見た。先生から返事はない。
*
その頃、先生は家の外にいた。
屋根の端にかけていた雨どいが、風で外れかけている。脚立を出し、手を伸ばした。
雨が顔に当たる。
金具を一つ締め直した時、突風が吹いた。
脚立が揺れる。
先生は壁へ手をつき、しばらく動かなかった。
家の中では、窓が鳴っている。
一人で暮らすには、それで足りた。
そう思って建てた家だった。
風の日に雨どいを直す人も、自分一人であればいいと思っていた。
先生は脚立を畳み、家の中へ入った。
携帯を見ると、不在着信が一件あった。
茜からだった。
かけ直そうとした瞬間、家が大きく揺れた。
天井の灯りが消える。
停電だった。
*
轟屋に、にしさんの軽トラックが止まった。
「様子を見てくる」
にしさんが言った。
「先生のところ?」
女将が訊く。
「丘の上の見回りだ。ついでだ」
茜はすぐに立ち上がった。
「私も行きます」
「駄目だ」
にしさんが、すぐに言った。
「でも」
「店にいろ」
「先生の家の中が、どうなってるか分かりません」
「だからって、お前が行って何ができる」
茜は言い返せなかった。
女将が、茜の顔を見た。
「雨どいと屋根の金具なら、茜ちゃんの方が分かるよ」
にしさんが女将を見る。
「おい」
「一人で行かせるんじゃない。あんたが連れていきな」
にしさんは大きく息を吐いた。
「危なけりゃ、すぐ戻る」
「はい」
茜は雨合羽を着た。
女将が懐中電灯を渡す。
「先生に、無茶するなって言っとくれ」
*
丘へ上がる道は、雨水で光っていた。
軽トラックはゆっくり進む。ワイパーが絶えず動き、風が車体を叩く。
家の前に着くと、先生は玄関の脇に立っていた。
懐中電灯を持ち、外壁を見ている。
「先生!」
茜が車から降りる。
先生は驚いた顔をした。
「どうして」
「連絡がつかないからです」
にしさんも車を降りた。
「雨どいは」
「一度、締めました。今は大丈夫です」
「中は」
「停電しています。屋根の一部が鳴るので、見に」
「見に行くな」
にしさんの声が、風の中でもよく通った。
「屋根に上がるな。今は何もできん」
先生は答えなかった。
茜が、玄関のそばの金具を見る。
さっき締め直したのだろう。ねじの頭が新しく光っている。
「先生、家の中を見せてください」
「茜さんまで」
「屋根には上がりません」
先生は少し迷ってから、戸を開けた。
家の中は暗かった。
懐中電灯の光が、壁と床を細く照らす。窓際に雨水が少したまっている。小上がりの端からも、ぽた、ぽたと水が落ちていた。
茜は光を上へ向ける。
「ここ、屋根じゃなくて、換気口の周りかもしれません」
「直せますか」
「今は、応急処置だけです」
茜は先生の工具箱を借り、棚にあった布とビニールを集めた。水の落ちる所に容器を置き、換気口の下をふさぐ。
先生は言われた通りに懐中電灯を持った。
「ここを押さえてください」
「はい」
「もう少し右です」
「ここですか」
「そこです」
風の音の中で、二人の声だけが近かった。
にしさんは玄関の外から様子を見ていたが、やがて言った。
「水、入らなくなったか」
「少し、ましです」
「なら、俺は下の家も見る。十分したら戻れ」
先生が玄関まで出る。
「ありがとうございます」
「礼はいい。屋根に上がるなよ」
にしさんは軽トラックへ戻った。
車の音が、雨の向こうへ遠ざかる。
*
家の中には、まだ水の落ちる音が残っていた。
茜は濡れた髪を押さえ、壁際に座った。
先生は小さなガスコンロへ鍋をかけた。
「お湯を沸かします」
「こんな時に?」
「冷えるので」
火がつくと、部屋に小さな明かりが増えた。
先生は湯のみを二つ出す。
「すみません」
「何がですか」
「茜さんまで、来させてしまって」
「私が来たかったんです」
先生は、湯のみへお湯を注いだ。
「でも、危なかった」
「にしさんが一緒でした」
「それでも」
茜は湯のみを両手で持った。
「先生も、危なかったですよね」
先生は何も言わない。
「一人で直そうとしてたんじゃないですか」
「誰かを呼ぶほどではないと思っていました」
「呼んでください」
茜の声が、少し大きくなった。
すぐに、雨の音へ紛れる。
「一人で暮らしていても、一人で何でもしなくていいです」
先生は湯のみを見たまま、動かなかった。
「僕は、その方がいいと思っていたので」
「前は、ですか」
先生は、ゆっくり顔を上げた。
「今も、そう思っているつもりでした」
窓の外で、風が鳴る。
小さな家は、風を受けながら立っている。
先生は、茜の手元を見た。濡れた袖。泥のついた指先。
「来てくれて、助かりました」
茜は、少しだけ笑った。
「どういたしまして」
「明るくなったら、換気口の周りを点検します」
「私も行きます」
「轟屋の仕事があるんじゃないですか」
「午前は店です。午後なら、時間を見て」
先生は、すぐに返事をしなかった。
「無理はしないでください」
「先生もです」
「はい」
短い返事だったが、今度は逃げるようには聞こえなかった。
外で、にしさんの車が戻ってくる音がした。玄関を開けると、にしさんは傘をたたみながら言った。
「下の道は通れる。店も大丈夫だ」
「ありがとうございます」
「だから礼はいい。二人とも、朝になったら明るいところで見直せ」
にしさんは、家の中を一度見回した。
「この家、雨の音がよく響くな」
「屋根が薄いので」
先生が答える。
「薄いんじゃなく、軽くつくったんだろ。こういう家は、風の日には誰かが様子を見てやらなきゃならん」
その言葉に、先生は黙った。
にしさんは茜へ視線を移した。
「明日の朝、店へ来られるか」
「はい」
「先生は、店で飯を食え。家の片づけは、そのあとだ」
先生が何か言おうとしたが、にしさんは手を上げた。
「反対するなら、雨どいを一人で直したことを女将に言うぞ」
先生は口を閉じた。
茜は思わず笑った。
その夜、雨が弱くなるまで、二人は小さな家で湯のみを手に、雨音を聞いていた。
天井から落ちる水は、もう容器の中だけに収まっていた。
夜が明ける前、風はようやく海の方へ抜けていった。
茜は濡れた雨合羽を玄関に掛け、工具を元の箱へ戻した。先生が戸を開けると、雲の切れ間から薄い朝の光が差し込んだ。
「アパートまで送ります」
「大丈夫です。明るくなってきましたし、ここからなら一人で帰れます」
「では、途中まで」
二人は家の前の坂を少しだけ下りた。道には折れた枝と葉が散っている。
「昨日、来てくれてありがとうございました」
「先生も、店へ来てください」
「はい」
それだけを確かめて、茜は先に坂を下りた。
先生は、姿が見えなくなってから家へ戻った。濡れた床を拭きながら、今まで一人で足りると思っていた家の広さを、初めて測り直していた。




