夏の終わり
八月の終わり、海宮の漁港に提灯が並んだ。
海上渡御の日だった。夕方、神輿を御座船へ乗せるため、担ぎ手たちが港へ集まる。漁船がその後ろにつき、海の上をゆっくり進む。
昼過ぎから、港の方では綱を確かめる声や、船のエンジンを試す音が続いていた。轟屋の前にも、いつもより多くの人が通った。
「今日は、店の前でも売るよ」
女将が言った。
「アジの南蛮漬けと、枝豆。あとは焼きおにぎり」
茜は前掛けを結び、店先に小さな台を出した。
炭の匂いがする。遠くで笛が鳴り、子どもたちが走っていく。
「忙しくなりますね」
「祭りの日は、考える暇がないくらいがちょうどいい」
女将は笑った。
たけさんが店先の台を少し動かし、通り道を広げた。
「人が増える。火のそばに子どもを寄せるなよ」
「分かっています」
茜は焼き網の位置を確かめ、枝豆の皿を奥へ寄せた。
にしさんは港から戻ってきたところで、濡れた手ぬぐいを首にかけていた。
「沖の風が変わってきた。船を出す時間は、早めるかもしれねえ」
「海上渡御を中止にすることもあるんですか」
茜が訊くと、にしさんは提灯の向こうを見た。
「海が荒れりゃ、神輿を船に乗せない。祭りより人の命が先だ」
その言葉を聞いて、茜は空を見上げた。雲は薄かったが、水平線の近くに灰色の筋が伸びていた。
日が落ちる頃、先生が店の前に現れた。
いつものような夕食の時間より、少し早い。
「こんばんは」
茜が言うと、先生は店先の台を見た。
「何か、手伝えることはありますか」
茜は聞き返しかけて、口を閉じた。
「先生がですか」
「女将さんが忙しそうなので」
女将は厨房の奥から顔を出す。
「聞いた? 先生が手伝うって」
「聞きました」
「じゃあ、焼きおにぎりを渡してもらおうか」
先生は、少し戸惑った顔をした。
「僕が」
「お金の計算は茜ちゃんがするから。渡すだけ」
「それなら」
先生は前掛けを受け取った。
紐を結ぼうとして、少し手間取る。
茜が後ろに回った。
「貸してください」
「すみません」
「謝るのは、皿を割ってからです」
女将の言葉をまねると、先生は小さく笑った。
茜は前掛けの紐を結び直した。
「これでいいです」
「ありがとうございます」
先生は店先に立った。
店の前を通る人は、先生の姿を見るたびに少し驚いた。
「丘の先生が、今日は店番かい」
「手伝いです」
「祭りの日だけ?」
先生は返事を迷い、茜を見た。
「今日は、手伝いです」
茜が代わりに答えた。
先生は小さくうなずいた。
最初の客は、神輿を担いだ若い男だった。
「焼きおにぎり二つ」
先生は、少し固まった。
茜が横から言う。
「二つですね。少しお待ちください」
先生は包みを受け取り、男へ渡した。
「どうぞ」
「あ、先生じゃん。珍しいな」
男は笑いながら、焼きおにぎりを受け取った。
先生は、少しだけ頭を下げた。
二人目、三人目になると、渡す手つきが少しずつ落ち着いた。
「先生、こっちに一つ」
茜が言えば、先生が渡す。
「枝豆、二つです」
「はい」
言葉は少ない。それでも、台の前には小さな流れができていった。
にしさんが、神輿を担いだまま店の前へ来た。
額に汗をかき、肩には晒しを巻いている。
先生の前掛けを見て、足を止めた。
「何やってんだ」
「手伝っています」
「見りゃ分かる」
先生は店の前を見た。
「茜さん一人では、大変そうだったので」
にしさんは口の端だけで笑った。
「焼きおにぎり三つ。あと、先生の分も一つ」
「僕は」
「祭りの日くらい食え」
茜が焼きおにぎりを包む。
先生は、にしさんへ三つ渡した。
「四つです」
にしさんは一つを先生の前へ戻す。
「それで合ってる」
先生は少し迷ってから、焼きおにぎりを受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。食え」
にしさんは、それだけ言って港の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、茜は先生へ声をかけた。
「にしさん、先生が店に来るのを嫌がっていた時期がありました」
「知っています」
「今は、焼きおにぎりを渡してくれますね」
「僕が変わったからでしょうか」
「にしさんが、見方を変えたのかもしれません」
先生は、港の方へ目を向けた。
「人の見方は、時間が経たないと変わらないものですね」
「家の金具より、ずっと難しいです」
「そうですね」
*
店の前が落ち着いた頃には、空に最初の花火が上がっていた。
ぱん、と乾いた音がして、光が港の上でほどける。
女将は、先生と茜へ紙コップのお茶を渡した。
「少し見てきな」
「店は」
「主人と私がいる」
二人は、港の端まで歩いた。
沖では、御座船の準備が始まっていた。神輿を乗せる台が船の中央に固定され、周囲の漁船が順番を確認している。提灯の明かりが海面に細く揺れた。
「船に乗せるんですね」
「港の中だけでなく、海の上も渡るから海上渡御です」
先生が答えた。
「詳しいですね」
「にしさんに教わりました」
「僕より、町のことを知っています」
「先生は、まだ来たばかりですから」
「何年もいます」
「でも、祭りは初めてでしょう」
先生は、返す言葉を失った。
人の輪から少し離れた場所に、古い係留柱がある。そこからなら、花火がよく見えた。
先生は、さっきの焼きおにぎりを半分に割った。
「食べますか」
「先生の分では」
「一人では、少し多いので」
茜は笑い、半分を受け取った。
表面は香ばしく、中はまだ温かい。
「おいしいですね」
「女将さんの味噌ですから」
「知っています」
先生が、少しだけ目を丸くした。
花火が続く。
赤や青の光が、水面に揺れた。
「先生、今日、来てよかったですか」
「どうしてですか」
「人が多いので」
先生は、港の人波を見た。
「疲れました」
「ですよね」
「でも」
先生は、お茶を一口飲んだ。
「悪くはなかったです」
茜は、何も言わずに笑った。
港の向こうで、最後の大きな花火が上がる。
音が遅れて、胸のあたりまで届いた。
帰り道、夜の風は少しだけ涼しかった。
轟屋の前で、先生は前掛けをたたんで女将へ返した。
「また、来年も手伝いますか」
茜が訊く。
先生は少し考えた。
「来年のことは、まだわかりません」
「そうですよね」
「でも」
先生は、店の灯りを見た。
「今日のような日なら、考えます」
その夜遅く、ラジオは沖合にできた熱帯低気圧のことを伝えていた。
明日の午後から、風が強まる可能性があるらしい。女将は、店先の台を片づけながら、茜へ言った。
「明日は、飛びそうなものを中へ入れておくれ」
「先生の家も見ておいた方がいいですね」
茜が言うと、女将は少し考えた。
「行くなら、明るいうちにね。無理に行かなくても、先生へ電話すればいい」
茜はうなずいた。
先生の家へ行くかどうかは、もう自分だけで決めることではない。けれど、風の音が大きくなる前に、伝えておきたいことはあった。
女将は音を少し大きくして、窓の外を見た。
夏は、もうすぐ終わるらしかった。




