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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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11/19

夏の終わり

八月の終わり、海宮の漁港に提灯が並んだ。


海上渡御の日だった。夕方、神輿を御座船へ乗せるため、担ぎ手たちが港へ集まる。漁船がその後ろにつき、海の上をゆっくり進む。


昼過ぎから、港の方では綱を確かめる声や、船のエンジンを試す音が続いていた。轟屋の前にも、いつもより多くの人が通った。


「今日は、店の前でも売るよ」


女将が言った。


「アジの南蛮漬けと、枝豆。あとは焼きおにぎり」


茜は前掛けを結び、店先に小さな台を出した。


炭の匂いがする。遠くで笛が鳴り、子どもたちが走っていく。


「忙しくなりますね」


「祭りの日は、考える暇がないくらいがちょうどいい」


女将は笑った。


たけさんが店先の台を少し動かし、通り道を広げた。


「人が増える。火のそばに子どもを寄せるなよ」


「分かっています」


茜は焼き網の位置を確かめ、枝豆の皿を奥へ寄せた。


にしさんは港から戻ってきたところで、濡れた手ぬぐいを首にかけていた。


「沖の風が変わってきた。船を出す時間は、早めるかもしれねえ」


「海上渡御を中止にすることもあるんですか」


茜が訊くと、にしさんは提灯の向こうを見た。


「海が荒れりゃ、神輿を船に乗せない。祭りより人の命が先だ」


その言葉を聞いて、茜は空を見上げた。雲は薄かったが、水平線の近くに灰色の筋が伸びていた。


日が落ちる頃、先生が店の前に現れた。


いつものような夕食の時間より、少し早い。


「こんばんは」


茜が言うと、先生は店先の台を見た。


「何か、手伝えることはありますか」


茜は聞き返しかけて、口を閉じた。


「先生がですか」


「女将さんが忙しそうなので」


女将は厨房の奥から顔を出す。


「聞いた? 先生が手伝うって」


「聞きました」


「じゃあ、焼きおにぎりを渡してもらおうか」


先生は、少し戸惑った顔をした。


「僕が」


「お金の計算は茜ちゃんがするから。渡すだけ」


「それなら」


先生は前掛けを受け取った。


紐を結ぼうとして、少し手間取る。


茜が後ろに回った。


「貸してください」


「すみません」


「謝るのは、皿を割ってからです」


女将の言葉をまねると、先生は小さく笑った。


茜は前掛けの紐を結び直した。


「これでいいです」


「ありがとうございます」


先生は店先に立った。


店の前を通る人は、先生の姿を見るたびに少し驚いた。


「丘の先生が、今日は店番かい」


「手伝いです」


「祭りの日だけ?」


先生は返事を迷い、茜を見た。


「今日は、手伝いです」


茜が代わりに答えた。


先生は小さくうなずいた。


最初の客は、神輿を担いだ若い男だった。


「焼きおにぎり二つ」


先生は、少し固まった。


茜が横から言う。


「二つですね。少しお待ちください」


先生は包みを受け取り、男へ渡した。


「どうぞ」


「あ、先生じゃん。珍しいな」


男は笑いながら、焼きおにぎりを受け取った。


先生は、少しだけ頭を下げた。


二人目、三人目になると、渡す手つきが少しずつ落ち着いた。


「先生、こっちに一つ」


茜が言えば、先生が渡す。


「枝豆、二つです」


「はい」


言葉は少ない。それでも、台の前には小さな流れができていった。


にしさんが、神輿を担いだまま店の前へ来た。


額に汗をかき、肩には晒しを巻いている。


先生の前掛けを見て、足を止めた。


「何やってんだ」


「手伝っています」


「見りゃ分かる」


先生は店の前を見た。


「茜さん一人では、大変そうだったので」


にしさんは口の端だけで笑った。


「焼きおにぎり三つ。あと、先生の分も一つ」


「僕は」


「祭りの日くらい食え」


茜が焼きおにぎりを包む。


先生は、にしさんへ三つ渡した。


「四つです」


にしさんは一つを先生の前へ戻す。


「それで合ってる」


先生は少し迷ってから、焼きおにぎりを受け取った。


「ありがとうございます」


「礼はいらん。食え」


にしさんは、それだけ言って港の方へ戻っていった。


その背中を見送りながら、茜は先生へ声をかけた。


「にしさん、先生が店に来るのを嫌がっていた時期がありました」


「知っています」


「今は、焼きおにぎりを渡してくれますね」


「僕が変わったからでしょうか」


「にしさんが、見方を変えたのかもしれません」


先生は、港の方へ目を向けた。


「人の見方は、時間が経たないと変わらないものですね」


「家の金具より、ずっと難しいです」


「そうですね」


*


店の前が落ち着いた頃には、空に最初の花火が上がっていた。


ぱん、と乾いた音がして、光が港の上でほどける。


女将は、先生と茜へ紙コップのお茶を渡した。


「少し見てきな」


「店は」


「主人と私がいる」


二人は、港の端まで歩いた。


沖では、御座船の準備が始まっていた。神輿を乗せる台が船の中央に固定され、周囲の漁船が順番を確認している。提灯の明かりが海面に細く揺れた。


「船に乗せるんですね」


「港の中だけでなく、海の上も渡るから海上渡御です」


先生が答えた。


「詳しいですね」


「にしさんに教わりました」


「僕より、町のことを知っています」


「先生は、まだ来たばかりですから」


「何年もいます」


「でも、祭りは初めてでしょう」


先生は、返す言葉を失った。


人の輪から少し離れた場所に、古い係留柱がある。そこからなら、花火がよく見えた。


先生は、さっきの焼きおにぎりを半分に割った。


「食べますか」


「先生の分では」


「一人では、少し多いので」


茜は笑い、半分を受け取った。


表面は香ばしく、中はまだ温かい。


「おいしいですね」


「女将さんの味噌ですから」


「知っています」


先生が、少しだけ目を丸くした。


花火が続く。


赤や青の光が、水面に揺れた。


「先生、今日、来てよかったですか」


「どうしてですか」


「人が多いので」


先生は、港の人波を見た。


「疲れました」


「ですよね」


「でも」


先生は、お茶を一口飲んだ。


「悪くはなかったです」


茜は、何も言わずに笑った。


港の向こうで、最後の大きな花火が上がる。


音が遅れて、胸のあたりまで届いた。


帰り道、夜の風は少しだけ涼しかった。


轟屋の前で、先生は前掛けをたたんで女将へ返した。


「また、来年も手伝いますか」


茜が訊く。


先生は少し考えた。


「来年のことは、まだわかりません」


「そうですよね」


「でも」


先生は、店の灯りを見た。


「今日のような日なら、考えます」


その夜遅く、ラジオは沖合にできた熱帯低気圧のことを伝えていた。


明日の午後から、風が強まる可能性があるらしい。女将は、店先の台を片づけながら、茜へ言った。


「明日は、飛びそうなものを中へ入れておくれ」


「先生の家も見ておいた方がいいですね」


茜が言うと、女将は少し考えた。


「行くなら、明るいうちにね。無理に行かなくても、先生へ電話すればいい」


茜はうなずいた。


先生の家へ行くかどうかは、もう自分だけで決めることではない。けれど、風の音が大きくなる前に、伝えておきたいことはあった。


女将は音を少し大きくして、窓の外を見た。


夏は、もうすぐ終わるらしかった。


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