屋上から見える夕陽
その日は、朝から風が強かった。
轟屋の裏口の戸が、何度閉めても少しだけ鳴る。
茜は昼の仕込みの合間に、戸の金具を見ていた。
「また、そこ見てるのかい」
女将が言った。
「蝶番が、少しゆるんでます」
「分かるの?」
「音が変わるので」
女将は戸を開け閉めした。
ぎい、と鳴る。
「ほんとだ」
茜は工具箱からねじ回しを出した。ねじを締め、戸を動かす。
今度は、静かに閉まった。
「直った」
女将が言う。
「はい」
「やっぱり、茜ちゃんはこういう顔をしてる時が一番いいね」
茜はねじ回しを握ったまま、少し困った。
「そんな顔してました?」
「してたよ」
女将は笑った。
たけさんが、カウンターの端から直った戸を見ていた。
「戸の修理まで頼むようになったのか」
「頼まれたわけじゃありません。音が気になっただけです」
にしさんが、焼き魚の皿を受け取りながら言った。
「気づいたら、直せるうちに直した方がいいです」
「直せないものまで触るなよ」
「分かっています」
茜はねじ回しを工具箱へ戻した。今は、どこまで自分の仕事なのかを考えてから手を出すようになっている。
夕方、女将は小さな風呂敷包みを茜へ渡した。
「先生のところへ」
「またですか」
「今日は来ないって、昼に連絡があったの」
中には、アジの南蛮漬けと、枝豆が入っていた。
「風が強いから、畑に出てるんじゃないかね」
茜は包みを受け取った。
「わかりました」
*
丘を上ると、先生は家の脇に立っていた。
屋根の端を見上げている。風で飛ばされそうな植木鉢を、壁際へ寄せていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
先生は茜の風呂敷を見た。
「女将さんからです」
「ありがとうございます」
「戸のねじも、さっき直しておきました」
「店のですか」
「はい。風で鳴っていたので」
先生は家の屋根を見上げたまま言った。
「僕の家も、少し見てもらえますか」
茜は顔を上げた。
「私がですか」
「風が強い日に、ここが鳴るんです」
先生は屋根と壁の境目を指した。
茜は近づき、外壁を手で押した。音のする場所を見上げる。金具の一つが、少し浮いている。
「ここかもしれません」
「直せますか」
「脚立があれば」
先生は物置から、小さな脚立を出してきた。
茜は上から屋根の端を見る。風が頬を打つ。金具を押さえ、ねじを締めると、浮きがなくなった。
「これで、大丈夫だと思います」
脚立を下りる時、先生が下から支えた。
「ありがとうございます」
「いえ。これくらい」
茜は工具を片づけながら、家を見た。
「先生の家、風の通り方まで考えてありますね」
「海から風が来るので」
「屋根の形も、風を受け流すようになってる」
「強い風の日は、結局うるさいですが」
「完璧じゃない所も、いいと思います」
先生は、少し意外そうに茜を見た。
「そうでしょうか」
「はい。直せる余地があるってことですから」
先生は答えなかった。
風が家の上を通り過ぎた。
「戸も、壁の金具も、放っておくと音が大きくなります」
茜が言った。
「小さいうちなら、ねじを締めるだけで済むんです」
「人も同じでしょうか」
先生が、屋根を見たまま訊いた。
「人は、ねじを締めれば直るものではありません」
「そうですね」
「でも、音がしているのに気づかないふりをすると、あとで大きな修理になるかもしれません」
先生は返事をしなかった。けれど、家の壁に手を当てた。
「先生が店に来なくなってから、店が静かになりました」
茜が言うと、先生は少し驚いたように振り向いた。
「僕が行かなくなったからですか」
「はい。そう思います」
「また、いつもの店に戻ると思います」
先生は、すぐには答えなかった。
「そうでしょうか」
「戻ってみれば、分かります」
先生は少し考えた。
「では、今日は行ってもいいでしょうか」
「女将さんに聞いてください」
「またですか」
今度は、茜も笑った。
「屋上に上がりますか」
先生が言った。
茜は手を止めた。
「屋上ですか」
「まだ、明るいので」
*
屋上は、思っていたより狭かった。
手すりの向こうに、町と海が見える。遠くの屋根は、夕方の光を受けて静かだった。
茜は、しばらく何も言えなかった。
「すごい」
やっと出た声は、小さかった。
先生は手すりに手を置いた。
「ここから見える夕陽は、町で一番だと思っています」
「思ってるんですか」
「根拠はありません」
茜は笑った。
「でも、私もそう思います」
海の上に、夕陽がゆっくり近づいていく。
「先生は、夕陽を見るためにここへ来るんですか」
「最初は、そうでした」
「最初は?」
先生は、海から目を離さない。
「ここの夕陽に出会って、ここに家を建てたいと思いました」
茜は黙って聞いた。
「その時、ここなら一人で暮らせると思ったんです」
「夕陽があるから?」
「夕陽もあります。畑もつくれる。電車の音も遠い」
先生は少し間を置いた。
「人と、あまり話さなくても済む」
茜の胸が、少し痛んだ。
けれど、かわいそうだとは思わなかった。
先生が自分で選んだ場所だった。
「今は、どうですか」
先生は、すぐには答えなかった。
夕陽の光が、先生の横顔に落ちる。
「轟屋があります」
「それだけですか」
「畑もあります」
「それだけ?」
先生は笑った。
「茜さんも、います」
茜の息が止まった。
先生は、言ってから気づいたように視線をそらした。
「店で、よく会うという意味です」
「わかってます」
茜は言ったが、うまく笑えなかった。
先生は、言葉を選び直すように続けた。
「茜さんが来なくなってから、店へ行くきっかけを失いました」
「私がいないと、行きにくかったんですか」
「それもあります。あの言い方をしたあとで、顔を出しにくくなりました」
先生は、手すりの向こうへ目を向けた。
「茜さんが悪いわけではありません。自分で距離を置けと言ったのに、いなくなると落ち着かなくなっただけです」
それは、告白のようには聞こえなかった。けれど先生が、自分の気持ちを隠さずに話そうとしていることは、茜にも分かった。
「私も、先生に来てほしいと思っています」
「はい」
「仕事を覚えたいから、店へ行っています。自分の手で暮らしをつくれるようになりたいから。でも、先生が来てくれると、少しうれしいです」
「はい」
「だから、先生が無理のない時に来てくれたらうれしいです。私はいつも通り働いています」
先生は、ゆっくりうなずいた。
「行ける時に行きます」
その返事なら、今は受け取れた。
目の前の夕陽が、少しにじんだ。
「泣いていますか」
「泣いてません」
「そうですか」
「風が強いだけです」
先生は、それ以上言わなかった。
茜は手の甲で目元をぬぐった。
「きれいですね」
「はい」
「こんな景色を毎日、一人で見てたんですね」
先生は夕陽を見たまま、静かに言った。
「今日は、一人ではありません」
夕陽が、海の向こうへ沈んでいく。
二人は、しばらくその場所を動かなかった。
夕陽が沈み、屋上の床が冷えてきた。
「戻りましょう」
先生が言った。
「明日、轟屋へ行きます」
「女将さんに、席を空けておいてもらいます」
「茜さんの隣でなくても」
「隣とは言っていません」
二人は階段を下りた。
風の音は、さっきより小さくなっていた。




