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茜色の家  作者: 大神みや
丘の上の小さな家

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9/19

資格

先生は、その翌日、轟屋に来なかった。


次の日も来なかった。


女将は、カウンターの端の席を見て、少しだけ眉を寄せた。


「畑が忙しいのかねえ」


「先生、来ないこともあるんですか」


茜が訊くと、女将は首を振った。


「ないわけじゃないけど、めずらしいね」


にしさんは、アジの骨を箸で寄せながら言った。


「放っとけ」


「そういう言い方」


女将がにらむ。


「一人でいたいやつまで、店に引っ張るなってことだ」


にしさんは、それだけ言って黙った。


茜は、先生の席に湯のみを置かなかった。


置けば、そこに先生がいないことが、かえってはっきりしてしまう気がした。


たけさんは、入口の暖簾が揺れるたび、顔を上げた。


「あの人、家で飯を食ってるのかね」


「自分で作っているかもしれないよ」


女将が答える。


「作れるのか?」


「そこを心配するんじゃないよ」


にしさんは鼻を鳴らした。


「茜が行かなくなったから、店に来る理由も減ったんだろ」


茜の手が、布巾の上で止まった。


「私のせいではありません」


「誰のせいかなんて、言ってねえ」


にしさんは骨を皿の端へ寄せた。


「ただ、いなくなったら分かることもあるってだけだ」


女将が、にしさんの前へ新しい湯のみを置いた。


「分かったようなことを言うんじゃないよ」


「分からねえから言ってる」


茜は、二人のやりとりを聞きながら、先生のいない席を見ないようにした。


*


三日目の夕方、女将が茜へ紙袋を渡した。


「先生のところへ、これを持っていってくれる?」


中には、カボチャの煮物と、炊き込みご飯が入っていた。


「また私が?」


「嫌なら、私が行くよ」


茜は紙袋を見た。


嫌ではない。


ただ、会っていいのかがわからない。


「行きます」


丘の家の前まで来ると、戸は少しだけ開いていた。


「先生」


返事はない。


もう一度呼ぶと、家の裏から声がした。


「はい」


畑の脇に、先生がいた。


土の上にしゃがみ込み、枯れかけた苗を見ている。軍手は泥で黒くなっていた。


「女将さんからです」


茜は紙袋を差し出した。


「ありがとうございます」


先生は受け取ったが、すぐには立ち上がらない。


「体調、悪いんですか」


「いえ」


「じゃあ、どうして来なかったんですか」


言ってから、茜は少し後悔した。


先生が店に来るかどうかは、先生が決めることだ。


先生は苗を見たまま答えた。


「少し、考えたいことがあって」


「考えた結果、店へ来ないことにしたんですか」


「そういうわけではありません」


「でも、三日も来なかったんですね」


茜の声が、自分で思っていたより強くなった。


先生はようやく顔を上げた。


「行くつもりではいました。ただ、どう話せばいいのか分からなくて」


茜は、その言葉を聞いても、すぐには納得できなかった。


その沈黙が、茜には少し困った。


責めたいわけではない。けれど、何もなかったことにして帰るのも嫌だった。


「棚のことですか」


先生の手が止まった。


「すみません。聞かない方がいいですよね」


「いえ」


先生は立ち上がり、軍手を外した。


「茜さんの図面を見て、昔のことを思い出しました」


「お仕事の」


「はい」


風が畑を抜ける。伸び始めたトマトの枝が、細く揺れた。


「昔、僕は、仕事で人の案を評価していました」


先生は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。


「正しいとか、足りないとか。数字で見て、もっともらしいことを言って」


「先生は、ちゃんと見てくれたんでしょう」


「見ていたつもりでした」


先生は、手のひらの泥を見た。


「でも、自分のことは何も見えていなかった」


茜は何も言わなかった。


「だから、茜さんの図面に何か言う資格はないと思ったんです」


その言葉に、茜は顔を上げた。


「資格って、何ですか」


先生は答えない。


「先生は、私の図面を見てくれました」


「一度だけです」


「一度でも」


茜は先生の前へ一歩近づいた。


「誰も、そこを見てくれなかったのに」


先生の目が、少し揺れた。


「私、ずっと、先生に見てもらいたかったんです」


言ってから、茜は頬が熱くなるのを感じた。


仕事の話だと続けたかったのに、うまく続かなかった。


先生は、あの日見た図面を思い出すように、畑の方へ目を向けた。


「茜さんは、仕事を続けるつもりですか」


「轟屋で、ですか」


「はい」


「続けたいです。まだ覚えることが多いので」


「建築の仕事に戻ることは」


「戻りたいと思っています。でも、戻るために何をすればいいか、まだ分かりません」


先生は、図面の余白を見た。


「なら、分からないままでも、手を動かすしかないですね」


「先生が言うと、簡単に聞こえます」


「簡単ではありません。僕も、分からないまま会社を辞めました」


「辞めたことを、後悔していますか」


「後悔はしています。けれど、戻りたいとは思いません」


その言葉には、迷いが残っていた。茜は、それ以上は聞かなかった。


先生は視線を下げた。


「期待しない方がいいです」


「どうしてですか」


「僕は、人の期待に応えられる人間ではないので」


声は静かだった。


静かすぎて、茜は少し腹が立った。


「決めないでください」


先生が顔を上げる。


「私が何を期待するか、先生が決めないでください」


茜は紙袋を持っていた手を下ろした。


「私は、先生に仕事を手伝ってほしいなんて言ってません」


先生は黙っている。


「図面を見て、いいと思ったなら、いいと言ってくれれば、それでいいんです」


風が止んだ。


先生は、しばらく茜を見ていた。


「……わかりました」


その返事は、小さかった。


茜は少し息を吐いた。


「それに」


先生が続けた。


「図面は、本当に悪くなかったです」


茜は目を伏せた。


「ありがとうございます」


その夜、先生は轟屋に来た。


いつもの端の席へ座り、女将が出したカボチャの煮物を食べた。


茜は、少し離れた所から見ていた。


「おいしいです」


先生が言う。


「今日のは、私が煮たんです」


茜が言うと、女将が横から口を挟んだ。


「味を見たのは私だけどね」


先生は箸を止めた。


「そうですか」


茜は、落ち着かないまま立っている。


「どうですか」


聞くつもりはなかったのに、聞いてしまった。


先生はカボチャをもう一口食べた。


「甘さが、ちょうどいいです」


茜は、少しだけ笑った。


資格があるかどうかは、まだわからない。


でも、先生の言葉を受け取ることはできた。


店を出る時、先生は茜の前で一度立ち止まった。


「明日も、来てもいいですか」


茜は、すぐには答えなかった。


先生が店へ来るかどうかは、先生が決めることだと思っていた。けれど今は、自分の返事も関わるらしい。


「女将さんに聞いてください」


少し意地の悪い返事になった。


先生は困った顔をした。


「そうします」


女将が奥から声を飛ばした。


「明日も席は空けとくよ」


先生は頭を下げ、暖簾の外へ出た。


茜は、先生の背中が坂を上っていくのを、今度は最後まで見送った。


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