資格
先生は、その翌日、轟屋に来なかった。
次の日も来なかった。
女将は、カウンターの端の席を見て、少しだけ眉を寄せた。
「畑が忙しいのかねえ」
「先生、来ないこともあるんですか」
茜が訊くと、女将は首を振った。
「ないわけじゃないけど、めずらしいね」
にしさんは、アジの骨を箸で寄せながら言った。
「放っとけ」
「そういう言い方」
女将がにらむ。
「一人でいたいやつまで、店に引っ張るなってことだ」
にしさんは、それだけ言って黙った。
茜は、先生の席に湯のみを置かなかった。
置けば、そこに先生がいないことが、かえってはっきりしてしまう気がした。
たけさんは、入口の暖簾が揺れるたび、顔を上げた。
「あの人、家で飯を食ってるのかね」
「自分で作っているかもしれないよ」
女将が答える。
「作れるのか?」
「そこを心配するんじゃないよ」
にしさんは鼻を鳴らした。
「茜が行かなくなったから、店に来る理由も減ったんだろ」
茜の手が、布巾の上で止まった。
「私のせいではありません」
「誰のせいかなんて、言ってねえ」
にしさんは骨を皿の端へ寄せた。
「ただ、いなくなったら分かることもあるってだけだ」
女将が、にしさんの前へ新しい湯のみを置いた。
「分かったようなことを言うんじゃないよ」
「分からねえから言ってる」
茜は、二人のやりとりを聞きながら、先生のいない席を見ないようにした。
*
三日目の夕方、女将が茜へ紙袋を渡した。
「先生のところへ、これを持っていってくれる?」
中には、カボチャの煮物と、炊き込みご飯が入っていた。
「また私が?」
「嫌なら、私が行くよ」
茜は紙袋を見た。
嫌ではない。
ただ、会っていいのかがわからない。
「行きます」
丘の家の前まで来ると、戸は少しだけ開いていた。
「先生」
返事はない。
もう一度呼ぶと、家の裏から声がした。
「はい」
畑の脇に、先生がいた。
土の上にしゃがみ込み、枯れかけた苗を見ている。軍手は泥で黒くなっていた。
「女将さんからです」
茜は紙袋を差し出した。
「ありがとうございます」
先生は受け取ったが、すぐには立ち上がらない。
「体調、悪いんですか」
「いえ」
「じゃあ、どうして来なかったんですか」
言ってから、茜は少し後悔した。
先生が店に来るかどうかは、先生が決めることだ。
先生は苗を見たまま答えた。
「少し、考えたいことがあって」
「考えた結果、店へ来ないことにしたんですか」
「そういうわけではありません」
「でも、三日も来なかったんですね」
茜の声が、自分で思っていたより強くなった。
先生はようやく顔を上げた。
「行くつもりではいました。ただ、どう話せばいいのか分からなくて」
茜は、その言葉を聞いても、すぐには納得できなかった。
その沈黙が、茜には少し困った。
責めたいわけではない。けれど、何もなかったことにして帰るのも嫌だった。
「棚のことですか」
先生の手が止まった。
「すみません。聞かない方がいいですよね」
「いえ」
先生は立ち上がり、軍手を外した。
「茜さんの図面を見て、昔のことを思い出しました」
「お仕事の」
「はい」
風が畑を抜ける。伸び始めたトマトの枝が、細く揺れた。
「昔、僕は、仕事で人の案を評価していました」
先生は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。
「正しいとか、足りないとか。数字で見て、もっともらしいことを言って」
「先生は、ちゃんと見てくれたんでしょう」
「見ていたつもりでした」
先生は、手のひらの泥を見た。
「でも、自分のことは何も見えていなかった」
茜は何も言わなかった。
「だから、茜さんの図面に何か言う資格はないと思ったんです」
その言葉に、茜は顔を上げた。
「資格って、何ですか」
先生は答えない。
「先生は、私の図面を見てくれました」
「一度だけです」
「一度でも」
茜は先生の前へ一歩近づいた。
「誰も、そこを見てくれなかったのに」
先生の目が、少し揺れた。
「私、ずっと、先生に見てもらいたかったんです」
言ってから、茜は頬が熱くなるのを感じた。
仕事の話だと続けたかったのに、うまく続かなかった。
先生は、あの日見た図面を思い出すように、畑の方へ目を向けた。
「茜さんは、仕事を続けるつもりですか」
「轟屋で、ですか」
「はい」
「続けたいです。まだ覚えることが多いので」
「建築の仕事に戻ることは」
「戻りたいと思っています。でも、戻るために何をすればいいか、まだ分かりません」
先生は、図面の余白を見た。
「なら、分からないままでも、手を動かすしかないですね」
「先生が言うと、簡単に聞こえます」
「簡単ではありません。僕も、分からないまま会社を辞めました」
「辞めたことを、後悔していますか」
「後悔はしています。けれど、戻りたいとは思いません」
その言葉には、迷いが残っていた。茜は、それ以上は聞かなかった。
先生は視線を下げた。
「期待しない方がいいです」
「どうしてですか」
「僕は、人の期待に応えられる人間ではないので」
声は静かだった。
静かすぎて、茜は少し腹が立った。
「決めないでください」
先生が顔を上げる。
「私が何を期待するか、先生が決めないでください」
茜は紙袋を持っていた手を下ろした。
「私は、先生に仕事を手伝ってほしいなんて言ってません」
先生は黙っている。
「図面を見て、いいと思ったなら、いいと言ってくれれば、それでいいんです」
風が止んだ。
先生は、しばらく茜を見ていた。
「……わかりました」
その返事は、小さかった。
茜は少し息を吐いた。
「それに」
先生が続けた。
「図面は、本当に悪くなかったです」
茜は目を伏せた。
「ありがとうございます」
その夜、先生は轟屋に来た。
いつもの端の席へ座り、女将が出したカボチャの煮物を食べた。
茜は、少し離れた所から見ていた。
「おいしいです」
先生が言う。
「今日のは、私が煮たんです」
茜が言うと、女将が横から口を挟んだ。
「味を見たのは私だけどね」
先生は箸を止めた。
「そうですか」
茜は、落ち着かないまま立っている。
「どうですか」
聞くつもりはなかったのに、聞いてしまった。
先生はカボチャをもう一口食べた。
「甘さが、ちょうどいいです」
茜は、少しだけ笑った。
資格があるかどうかは、まだわからない。
でも、先生の言葉を受け取ることはできた。
店を出る時、先生は茜の前で一度立ち止まった。
「明日も、来てもいいですか」
茜は、すぐには答えなかった。
先生が店へ来るかどうかは、先生が決めることだと思っていた。けれど今は、自分の返事も関わるらしい。
「女将さんに聞いてください」
少し意地の悪い返事になった。
先生は困った顔をした。
「そうします」
女将が奥から声を飛ばした。
「明日も席は空けとくよ」
先生は頭を下げ、暖簾の外へ出た。
茜は、先生の背中が坂を上っていくのを、今度は最後まで見送った。




