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茜色の家  作者: 大神みや
増えたもの

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19/19

スズキと綻び

六月のある夕方、にしさんがスズキを轟屋へ持ってきた。


銀色の魚体が、発泡箱の氷の上で光っている。


「これからうまくなる魚だ」


主人が手早く三枚におろし、女将は氷水を用意する。茜は大葉を洗い、今度は表を上にして皿へ敷いた。


「覚えたな」


にしさんが言う。


「はい。スズキは洗いにするんですよね」


「氷水に通して、身を締める。水っぽくするんじゃねえ」


茜は主人の手元を見た。白い身が水の中で少し縮み、皿に上がると透明に近い色になる。


先生は一口食べた。


「歯ごたえがありますね」


「夏の魚は、こうじゃなきゃな」


にしさんは満足そうにうなずいた。


*


その土曜、茜は夕方まで轟屋で働き、仕事道具を小さな鞄へ入れて丘へ向かった。次の作業までの時間を使って、家の使い方を試すことにしていた。


家へ着くと、先生が洗濯物を取り込んでいる。新しい部屋の前に置いた竿には、タオルとシャツが重なっていた。


「干す場所、足りませんでした」


「竿を増やす話をしましたね」


「はい。買ってきたのですが、取り付ける場所を決められなくて」


先生は、壁際に立てかけた金属の竿を見た。


「ここなら、窓から見えません」


「でも、風が通りません。乾きにくいです」


「窓の前だと、仕事道具を運ぶ時に邪魔になります」


茜は返事を止めた。どちらも正しい。先生は家の見た目と動線を気にし、茜は暮らしの使いやすさを気にしている。


「竿を二本にして、一本は壁側、もう一本は庭側に置くのはどうですか」


「庭側だと、畑の水やりの邪魔になります」


二人の声が、少しずつ硬くなった。


その時、玄関の外から足音がした。磯崎が、窓の枠を確認するために立ち寄ったのだった。


「どうしたんだい」


「洗濯物を干す場所です」


先生が答える。


磯崎は庭と窓と竿を順に見た。


「風の通り道は、残しておこう。家の中から外へ出る道も要る」


「では、どこがいいでしょうか」


茜が訊くと、磯崎は竿を持ち上げた。


「決めるのは二人でいい。朝、洗濯物を持って出る時の道を、一度歩いてみるといい」


磯崎は、庭を一周した。


「暮らしが変わると、同じ場所でも邪魔になる。置く前に、一日の動きを試してみよう」


それだけ言って、窓枠の確認へ移った。


二人は黙って、洗濯籠を持って家の中を歩いた。台所から庭へ出て、畑の脇を通り、物干し竿を置く場所を探す。


「ここなら、朝の光が当たります」


茜が言う。


「夕方は、家の影になります」


「その頃には、取り込みます」


先生は、庭の端に小さな杭を立てた。


「二本ではなく、一本をここへ」


「もう一本は、窓の下へ折りたたみ式にしましょう」


「それなら、仕事道具の邪魔になりません」


二人で決めると、さっきまでの硬さが少し解けた。


ところが夕方まで使ってみると、壁側に置いた竿の洗濯物はまだ乾かなかった。窓を開ければ風は通るが、仕事道具を運ぶたびにシャツの袖が当たる。先生の白いシャツには、木くずが細くついていた。


「やっぱり、ここでは無理です」


先生が言うと、茜の胸が固くなった。


「昨日は、これでいいと言いました」


「試してみないと分からないと言っただけです」


「私も試した結果を言っています」


二人とも声を荒らげたわけではない。それでも、家の中の空気は、前の晩より冷たくなった。


茜は濡れたシャツを籠へ戻した。


「今日は、これ以上決めないでおきましょう。仕事から帰って、もう一度考えます」


先生は返事をしなかった。竿の位置を変えようともせず、ただ窓を閉めた。


*


夕方、夕飯には轟屋から分けてもらったスズキの洗いを出した。茜が氷水を用意し、先生が大葉を皿へ並べる。


「先生、大葉の向きが逆です」


「すみません」


「謝らなくていいです。表を上にすると、魚がずれません」


先生は皿を持ち直した。


「家のことも、今日のように言ってください」


「言い方がきつくなりました」


「私も、急いで決めようとしました」


二人は、スズキを口へ運んだ。冷たく締まった身に、梅肉を少しつける。


「おいしいです」


「にしさんが言っていた通り、これからうまくなる魚ですね」


「魚も、家も、季節に合わせて変わるんですね」


先生が言った。


「家は、変えたくない部分と、変えないと暮らせない部分があります」


「人も、ですか」


「たぶん」


茜は、昼間の竿を思い出した。置き場所を変えるだけで、窓からの光も庭への道も残せた。


*


夕方、磯崎は帰る前に、新しい部屋の壁の継ぎ目を指でなぞった。


「ここ、少し動いた」


茜が近づく。


「綻びですか」


「木が乾いた分だ。今なら埋められる」


磯崎は細い道具を取り出し、継ぎ目へ少量の材料を押し込んだ。


「今のうちに直しておくと、後で楽だよ」


「人の間も、そうでしょうか」


茜が訊いた。


磯崎は二人を見たが、答えは言わなかった。


「見つけたら、今のうちに直しておこう」


それだけ残して、玄関へ向かった。


先生は、壁の継ぎ目を見ていた。


「今日のこと、嫌でしたか」


「嫌ではありません。意見が違うことが分かりました」


「それは、嫌なことでは」


「違います。違うまま話せるなら、必要なことです」


茜は少し笑った。


「では、次は料理の担当を決めましょう」


「僕が洗い物をします」


「先生は、洗い物の前に水を出しっぱなしにします」


「気をつけます」


食べ終えるころには、外が暗くなっていた。茜はアパートへ戻るため、仕事道具を鞄へ戻した。家の中には、洗濯物の乾く匂いと、スズキの梅肉の香りが残っている。


帰る前、茜が庭の杭を確かめると、先生がそのそばに立っていた。


「竿、ここでいいと思います」


「私も、そう思います」


その日の試行で、同居を決める答えは出なかった。ただ、違う考えを持ったまま、同じ家の中で次の場所を探せることは分かった。


茜は、帰る前に新しい部屋の机へ手帳を置いた。昨日までなら持ち帰っていた仕事道具だった。


「これは、置いていくんですか」


先生が訊く。


「次の作業日に使うので」


「アパートにも、同じ道具がありますか」


「あります。こちらは、ここで考えるための分です」


先生は、机の上の鉛筆を一本だけ整えた。


「場所が二つになると、管理するものも増えます」


「だから、少しずつにします」


「はい」


茜は玄関で靴を履いた。先生は、洗濯籠を持って庭へ出る。


「次までに、竿を取り付けておきます」


「一人で無理をしないでください」


「分かっています。たけさんに頼みます」


その返事を聞いて、茜は安心した。先生は、以前なら自分でできることを人に頼まなかった。今は、家を二人で使うために、誰かの手を借りることを選び始めている。


坂を下りる途中、茜は手帳を開いた。次の欄に、小さく予定を書き込む。


〈物干し竿 取り付け確認〉


その下に、もう一つ付け足した。


〈夕飯 スズキの残り〉


家の中では、先生が皿を洗っていた。水を出しっぱなしにしないよう、蛇口を何度も確かめている。


二人の暮らしは、まだ始まっていない。それでも、前日の綻びを見つけ、次の日に直すための予定が、少しずつ増えていた。

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