スズキと綻び
六月のある夕方、にしさんがスズキを轟屋へ持ってきた。
銀色の魚体が、発泡箱の氷の上で光っている。
「これからうまくなる魚だ」
主人が手早く三枚におろし、女将は氷水を用意する。茜は大葉を洗い、今度は表を上にして皿へ敷いた。
「覚えたな」
にしさんが言う。
「はい。スズキは洗いにするんですよね」
「氷水に通して、身を締める。水っぽくするんじゃねえ」
茜は主人の手元を見た。白い身が水の中で少し縮み、皿に上がると透明に近い色になる。
先生は一口食べた。
「歯ごたえがありますね」
「夏の魚は、こうじゃなきゃな」
にしさんは満足そうにうなずいた。
*
その土曜、茜は夕方まで轟屋で働き、仕事道具を小さな鞄へ入れて丘へ向かった。次の作業までの時間を使って、家の使い方を試すことにしていた。
家へ着くと、先生が洗濯物を取り込んでいる。新しい部屋の前に置いた竿には、タオルとシャツが重なっていた。
「干す場所、足りませんでした」
「竿を増やす話をしましたね」
「はい。買ってきたのですが、取り付ける場所を決められなくて」
先生は、壁際に立てかけた金属の竿を見た。
「ここなら、窓から見えません」
「でも、風が通りません。乾きにくいです」
「窓の前だと、仕事道具を運ぶ時に邪魔になります」
茜は返事を止めた。どちらも正しい。先生は家の見た目と動線を気にし、茜は暮らしの使いやすさを気にしている。
「竿を二本にして、一本は壁側、もう一本は庭側に置くのはどうですか」
「庭側だと、畑の水やりの邪魔になります」
二人の声が、少しずつ硬くなった。
その時、玄関の外から足音がした。磯崎が、窓の枠を確認するために立ち寄ったのだった。
「どうしたんだい」
「洗濯物を干す場所です」
先生が答える。
磯崎は庭と窓と竿を順に見た。
「風の通り道は、残しておこう。家の中から外へ出る道も要る」
「では、どこがいいでしょうか」
茜が訊くと、磯崎は竿を持ち上げた。
「決めるのは二人でいい。朝、洗濯物を持って出る時の道を、一度歩いてみるといい」
磯崎は、庭を一周した。
「暮らしが変わると、同じ場所でも邪魔になる。置く前に、一日の動きを試してみよう」
それだけ言って、窓枠の確認へ移った。
二人は黙って、洗濯籠を持って家の中を歩いた。台所から庭へ出て、畑の脇を通り、物干し竿を置く場所を探す。
「ここなら、朝の光が当たります」
茜が言う。
「夕方は、家の影になります」
「その頃には、取り込みます」
先生は、庭の端に小さな杭を立てた。
「二本ではなく、一本をここへ」
「もう一本は、窓の下へ折りたたみ式にしましょう」
「それなら、仕事道具の邪魔になりません」
二人で決めると、さっきまでの硬さが少し解けた。
ところが夕方まで使ってみると、壁側に置いた竿の洗濯物はまだ乾かなかった。窓を開ければ風は通るが、仕事道具を運ぶたびにシャツの袖が当たる。先生の白いシャツには、木くずが細くついていた。
「やっぱり、ここでは無理です」
先生が言うと、茜の胸が固くなった。
「昨日は、これでいいと言いました」
「試してみないと分からないと言っただけです」
「私も試した結果を言っています」
二人とも声を荒らげたわけではない。それでも、家の中の空気は、前の晩より冷たくなった。
茜は濡れたシャツを籠へ戻した。
「今日は、これ以上決めないでおきましょう。仕事から帰って、もう一度考えます」
先生は返事をしなかった。竿の位置を変えようともせず、ただ窓を閉めた。
*
夕方、夕飯には轟屋から分けてもらったスズキの洗いを出した。茜が氷水を用意し、先生が大葉を皿へ並べる。
「先生、大葉の向きが逆です」
「すみません」
「謝らなくていいです。表を上にすると、魚がずれません」
先生は皿を持ち直した。
「家のことも、今日のように言ってください」
「言い方がきつくなりました」
「私も、急いで決めようとしました」
二人は、スズキを口へ運んだ。冷たく締まった身に、梅肉を少しつける。
「おいしいです」
「にしさんが言っていた通り、これからうまくなる魚ですね」
「魚も、家も、季節に合わせて変わるんですね」
先生が言った。
「家は、変えたくない部分と、変えないと暮らせない部分があります」
「人も、ですか」
「たぶん」
茜は、昼間の竿を思い出した。置き場所を変えるだけで、窓からの光も庭への道も残せた。
*
夕方、磯崎は帰る前に、新しい部屋の壁の継ぎ目を指でなぞった。
「ここ、少し動いた」
茜が近づく。
「綻びですか」
「木が乾いた分だ。今なら埋められる」
磯崎は細い道具を取り出し、継ぎ目へ少量の材料を押し込んだ。
「今のうちに直しておくと、後で楽だよ」
「人の間も、そうでしょうか」
茜が訊いた。
磯崎は二人を見たが、答えは言わなかった。
「見つけたら、今のうちに直しておこう」
それだけ残して、玄関へ向かった。
先生は、壁の継ぎ目を見ていた。
「今日のこと、嫌でしたか」
「嫌ではありません。意見が違うことが分かりました」
「それは、嫌なことでは」
「違います。違うまま話せるなら、必要なことです」
茜は少し笑った。
「では、次は料理の担当を決めましょう」
「僕が洗い物をします」
「先生は、洗い物の前に水を出しっぱなしにします」
「気をつけます」
食べ終えるころには、外が暗くなっていた。茜はアパートへ戻るため、仕事道具を鞄へ戻した。家の中には、洗濯物の乾く匂いと、スズキの梅肉の香りが残っている。
帰る前、茜が庭の杭を確かめると、先生がそのそばに立っていた。
「竿、ここでいいと思います」
「私も、そう思います」
その日の試行で、同居を決める答えは出なかった。ただ、違う考えを持ったまま、同じ家の中で次の場所を探せることは分かった。
茜は、帰る前に新しい部屋の机へ手帳を置いた。昨日までなら持ち帰っていた仕事道具だった。
「これは、置いていくんですか」
先生が訊く。
「次の作業日に使うので」
「アパートにも、同じ道具がありますか」
「あります。こちらは、ここで考えるための分です」
先生は、机の上の鉛筆を一本だけ整えた。
「場所が二つになると、管理するものも増えます」
「だから、少しずつにします」
「はい」
茜は玄関で靴を履いた。先生は、洗濯籠を持って庭へ出る。
「次までに、竿を取り付けておきます」
「一人で無理をしないでください」
「分かっています。たけさんに頼みます」
その返事を聞いて、茜は安心した。先生は、以前なら自分でできることを人に頼まなかった。今は、家を二人で使うために、誰かの手を借りることを選び始めている。
坂を下りる途中、茜は手帳を開いた。次の欄に、小さく予定を書き込む。
〈物干し竿 取り付け確認〉
その下に、もう一つ付け足した。
〈夕飯 スズキの残り〉
家の中では、先生が皿を洗っていた。水を出しっぱなしにしないよう、蛇口を何度も確かめている。
二人の暮らしは、まだ始まっていない。それでも、前日の綻びを見つけ、次の日に直すための予定が、少しずつ増えていた。




