微子
召奭伝 第9話 我が召国が出征の号令を発してから、事態は瞬く間に決戦の舞台へと収束していった。そして今、私は人目を忍んで用意された、薄暗い密室に身を置いている。集まったのは、わずか七人。周の新たなる主・姫発殿、その弟である鮮殿と旦殿。西北の勇猛なる姜族を束ねる指導者・申豹殿。彼らを裏で繋ぐ軍師、姜子牙。商を討つべく集った、反商連合の最高幹部たち。その歴史の運命を決める談合の場に、姜子牙の手引きによって、最後の一人が連れられてきた。「皆様、ご紹介いたします。こちらのお方が商の王兄、微子様でございます。大王の暴政から商の国と民を護るため、遂に大いなる覚估を決めてくださいました」姜子牙の言葉とともに、室内に張り詰めていた空気が、確固たる熱を帯びて動いた。連れてこられた男、微子啓。商の最高中枢から命からがら逃れてきた、あの王兄だ。比干殿の急死、箕子殿の投獄。そして、この微子殿の追放。悪逆非道なる紂王の暴挙によって商の三賢がことごとく潰される中、生き残った最後の賢人が、天下の正義のために周・召の連合へ加わるという大いなる決断を下してくれたのだ。微子殿は王族としての矜恃を保ちつつ、細心の注意を払って挨拶を返してきた。その佇まいからは、祖国を裏切ってでも民を救おうとする悲壮な覚悟と、計り知れない緊張感が伝わってくる。(……商の誇る最高の賢人が、ついに我らと共に立つか。これ以上の大義名分はあるまい)私は深い敬意を込め、その姿を真っ直ぐに見据えていた。微子殿の参画は、この戦の持つ意味を完全に変えた。これは単なる地方諸侯による謀反ではない。商の王族であり、天下の誰もが認める賢臣が「商に大義なし」と断じたのだ。この事実は、中原のあらゆる諸侯や民の心を揺り動かす決定打となる。会議は極めて事務的に、そして冷徹に進められた。「朝歌の手前の荒野で決戦になるならば、両軍が対峙するその中で、微子殿が商の非と我らの正義を訴える演説を行う。……これほど商軍の戦意を挫く策はございませんな」私が低く、確信を込めた声でそう告げると、微子殿は国を救う重責を背負った表情で、静かに胸を撫でおろしていた。商の王兄が自ら叫ぶ正義。これこそ、我が連合の士気を天下の正義として爆発させる、決定的な武功となるはずだ。対面で地図を睨みつける姫発殿の双眸にも、並々ならぬ決意の光が宿っている。偉大な父・姫昌殿の遺志を継いだ新王と、商の最後の良心である賢臣。この二人が手を取り合う光景に、私は確かな勝機を見ていた。カチリとそれぞれの役割が噛み合い、密談は静かに解散となった。席を立ち、室外へと退出する微子殿の背中を、私は頼もしさともにある種の畏敬を持って見送る。(商の三賢が一人を味方に迎えた。もはや、この進軍を阻む大義など天下のどこにもない)発起人である周への敬意と、亡き姫昌殿への義理。そこに、微子殿という最高の「正義」が加わったのだ。我が召国が背負う民の未来のためにも、この一戦、絶対に負けるわけにはいかない。私は冷徹に、かつ激しく己の心を研ぎ澄ました。天下の覇権をかけた激動の大渦の真ん中で、真の勝者として立つために、私は静かに決戦の戦雲を睨み据えるのだった。




