専征専伐
召奭伝 第17話 我が召国が全力を賭して前線へ参戦したことにより、崩壊寸前だった周軍の防衛線は、商の最強の正規軍を相手にようやく「互角」の立ち回りを見せるまでに盛り返していた。召の半数の兵力、そして豊京の真下にある我が召、身を切るような出費を強いられながらも、私は冷徹に戦況をし続けていた。そんなある日、私の元に摂政・周公旦殿がやって来た。その顔は、これ以上ないほどに端正な面持ちを崩し、屈辱に塗れていた。彼は私の前に座るなり、耳を疑うような、恐るべき恥知らずな提案を口にしたのだ。「太保(召公奭)殿……。東方の『斉』にいる、姜子牙先生に……頭を下げて、攻勢に出てもらうよう要請したいのだ」――はぁぁ? お前、本気で言うているのか?私はいつもの懃懃な無表情を保ちながらも、心の底からこの男に呆れ果てていた。わずか二年前、自らの摂政としての独裁を確固たるものにするため、古参の家臣たちの嫉妬の火を煽り、兵も持たせずにあの怪物を東方の最前線へ嵌め落としたのは、一体どこの誰だったか。それを今さら、自分が危機に落ち負けそうになったからと「助けてくれ」と言い出すなど、あまりにも身勝手が過ぎる。だが、私の脳細胞は瞬時に怒りを通り越し、冷徹な計算を終えていた。商の正規軍を相手にするこの大内戦、万が一にも我が召国が負けるわけにはいかないのだ。負ければ、国ごと滅亡の泥底に沈む。これ以上の泥沼を避けるためには、あの化け物の狂気的な軍略の牙が、どうしても必要であった。「……分かりました、摂政殿。不愉快極まりないが、背に腹は代えられぬ」私はしぶしぶ、その恥知らずな提案に賛同することに決めた。姜子牙という怪物を動かすには、それ相応の「対価」が必要となる。周公旦殿の用意した書状には、これでもかと見苦しい謝罪と言い訳が並べ立てられていた。そして何より、東方の反乱諸侯を征伐する絶対的な軍事権と、彼らの生死を独断で決める処刑権を保証する証として――王権の象徴たる「斧鉞」の授与が記されていた。これほどの大権を、あの男に引き渡す。それは、諸刃の剣どころではない、国を滅ぼしかねない禁忌の一手であった。周公旦殿には、自ら追放した手前、どうしても斉へ赴く面目がなかったのだろう。結局、太保であり、新王朝の外交を担うこの私が、直々に東方の斉国へと赴くことになった。「――久しいな、姜子牙殿。此度は、我が新王朝の摂政の暴走を止められず、あなたをこのような遠方へ追いやる事態となったこと、太保として心よりお詫び申し上げる」斉の宮廷で姜子牙と対面した私は、完璧な政治的演技をもって頭を下げた。すべての泥は、都で孤立している周公旦のせいに仕立て上げ、我が召国はあくまであなたの味方であったという体裁を繕うための、冷徹な二枚舌の謝罪であった。姜子牙は、その私の姿を前に、すべてを見抜いているかのような底知れぬ笑みを口元に浮かべながら、「斧鉞」と周公旦の謝罪文を受け取った。――その後の戦況は、まさに悪夢のような速度で急転した。朝廷からの懇願を受け、ついに東方の『斉』が全軍をもって攻勢に出た。解き放たれた怪物の軍勢は、凄まじいの一言に尽きた。斉軍がひとたび動けば、反乱軍に加担していた東方諸侯の国々が、文字通り塵の吹き飛ぶような速度で次々と陥落し、戦争の天秤は急速に周へと傾いていったのだ。商の精鋭に押されていた前線が、一瞬にして周側の圧倒的優位へと塗り替えられてゆく。だが、その凄まじい戦勝報告を前に、私の背筋には冷たい汗が流れ続けていた。(東方の全権……『征伐の大権』を、あの姜子牙に与えてしまったのだぞ……)もし、この大内戦終わったあと、あの東方の怪物がその強大な軍事力と斧鉞の権能をそのままに、中央(俺たち)へ向けて牙を剥いたらどうなる。その時は、今度こそ周も、我が召国も、終わりを迎える。これしか、三監の乱を鎮圧する手はなかった。だが、私たちは反乱を鎮めるために、それ以上の破滅を呼び込みかねない「最悪の化け物」の檻を開けてしまったのではないか。手に入りかけた勝利の熱気の裏で、私は消えない戦慄を抱きながら、東方の空を血に染めて進撃する怪物の影を、冷然と睨み据えるのだった。




