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1-7「暗い部屋で、世界が答えた。」

朝、スマホのアラームを止めながら、俺は昨夜の言葉を反芻していた。


 カウントダウン。


 《チュートリアル:1/3》が出たのは、この世界に来た初日だった。《2/3》が出たのは昨夜。残りは一つ。


 それが出たとき、何が起きる。


 チュートリアルが終わるとき、ゲームは「本番」を始める。エンジニアとして二十年近くシステムを触ってきた経験が、そう告げている。準備期間が終わる。猶予が消える。


 俺はベッドから起き上がり、窓の外を見た。


 普通の朝だ。電線。隣の家の屋根。遠くのコンビニの看板。


 全部、いつも通りに存在している。


 ……少なくとも、今は。


【陽菜:おはよー! 今日文化祭の委員会あるから放課後絶対来てね! 逃げたら許さないから!】


 スマホを置いた。


 文化祭。委員会。


 四十三年の人生で、この単語の組み合わせをここまで頻繁に聞くことになるとは思っていなかった。


――


 一限目が始まる前、俺は教室で一ノ瀬を捜した。


 いつもの席。窓際の後ろから二番目。


 一ノ瀬はすでに着席していて、文庫本を読んでいた。俺が近づくと、本から目を上げずに言った。


「《2/3》が出たな」


「……見てたのか」


「君の顔を見ればわかる」


 俺は隣の席に腰を下ろした。本来は別の生徒の席だが、まだ誰も来ていない。


「一ノ瀬。以前の通信の試みについて、今日話せるか」


 一ノ瀬は本を閉じた。


「放課後、時間を作れるか」


「委員会がある」


「何時に終わる」


「陽菜次第だから読めない」


 一ノ瀬は少し考えてから言った。


「終わったら旧校舎に来い。待ってる」


 それだけ言って、また本を開いた。


 会話終了。


 相変わらず、言葉の無駄がない。


――


 放課後の委員会は、予想以上に長引いた。


 会議室に集められた十数名の生徒たちが、文化祭の出し物について侃々諤々と議論している。陽菜はその中心にいて、恐ろしいほど活き活きとしていた。


「お化け屋敷がいい!」「メイド喫茶にしよ!」「脱出ゲームとかどう?」


 俺は隅の席で、議事録係を押しつけられていた。


 ノートにペンを走らせながら、脳の半分で別のことを考える。


 一ノ瀬が試みた「通信」とは何だったのか。そして、なぜ失敗したのか。


「ちーちゃん、聞いてる?」


 陽菜が俺の肩を叩いた。


「聞いてる」


「じゃあ今の多数決、どっちに手挙げた?」


「……お化け屋敷」


「正解! ちーちゃんセンスある」


 センスではなく、直前に挙がっていた声の数を数えただけだ。


 結局、委員会が終わったのは五時を過ぎてからだった。


「お疲れ! 帰ろ」


「俺はもう少し残る。忘れ物」


「何を?」


「ノート」


「さっきまで書いてたじゃん」


「別のノート」


 陽菜は疑わしそうな顔をしたが、「じゃあ先帰るね」と言って出て行った。


 俺はため息をついて、旧校舎へ向かった。


――


 非常階段の踊り場。


 一ノ瀬はいつもの場所にいた。だが今日は本を持っていない。手すりに背中を預け、腕を組んで、ただ待っていた。


「遅かった」


「陽菜が放さなかった」


「そうか」


 俺は隣に立った。夕暮れが終わりかけている。空の色が、濃い青に変わりつつある。


「話してくれ。通信の試みについて」


 一ノ瀬は少しの間、黙っていた。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「ちひろが消える、二週間前のことだ」


 声のトーンが、いつもより低い。


「俺たちは『呼びかけ』の仮説に行き着いていた。653という数列が、外部への信号だとしたら——返答が来るかもしれない。そう考えた」


「どうやって試した」


「この世界の物理定数を、極限まで精密に測定することにした。プランク定数、微細構造定数、重力定数。もし設計者が数式の中にサインを残しているなら、定数の小数点以下の深い桁にも、同じパターンが現れるはずだと思った」


 俺は静かに聞いた。


「実際に測定してみると……あった。何十桁も先に、653と同じ配列が現れた。しかも複数の定数に、同じ場所に」


「それで?」


「俺は、その座標に向けて『応答』を送ろうとした。方法はシンプルだ。同じ数列を、この世界の物理現象として再現する。振り子の周期を653に合わせ、光の点滅を653のリズムで刻み、音の波長を653の比率で調整した。全部を同時に、特定の場所で」


 俺はエンジニアとして、その発想の意味をすぐに理解した。


 信号を、同じ周波数で返す。共鳴させることで、存在を知らせる。


「……うまくいったのか」


「最初の三秒は、うまくいっていた」


 一ノ瀬の声が、わずかに揺れた。


「世界の解像度が、一瞬だけ上がった。空気の粒度が変わった。まるでシステムが『受信した』みたいに、世界全体が静止した」


「それから」


「エージェントが来た」


 俺は息を止めた。


「あの速さで来たのは、初めてだった。それまでエージェントは、俺の前に現れたことがなかった。でも通信を試みた瞬間、三十秒以内に現れた。完全な無表情で、俺の実験装置を全部止めた」


「お前は逃げたのか」


「逃げた。でも——」


 一ノ瀬は手すりを、強く握った。


「ちひろは、その場にいた」


 沈黙が落ちた。


 夕風が、踊り場を吹き抜けた。


「ちひろはエージェントを引きつけながら、俺を逃がした。そして次の日から、様子がおかしくなった。三日後に消えた」


 俺は、言葉を探した。


 見つからなかった。


 一ノ瀬は手すりから手を離し、空を見上げた。


「俺のせいだ。俺が通信を試みなければ、エージェントは来なかった。ちひろは——」


「違う」


 俺は、思ったより強い声で言っていた。


 一ノ瀬が、こちらを見た。


「ちひろはメモ帳に書いていた。消える前から準備していた。お前の通信の失敗より前から、ちひろは『いなくなること』を想定していた。お前のせいじゃない」


 一ノ瀬は、何も言わなかった。


 信じたのか、信じていないのか、わからない顔だった。


 でも、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。


「……一つ、試したいことがある」


 俺は切り替えた。感情の処理は後回しだ。今は動く。


「お前の通信の試みが失敗したのは、エージェントを呼び寄せたからじゃなくて、方法が外側から見えすぎたからだと思う。物理現象で信号を出せば、システムに検知される。でも、もっと『静かな』方法があるかもしれない」


「静かな方法?」


「量子力学だ。観測されるまで状態が確定しない——それを逆に使う。誰も見ていない密室で、観測されない状態のまま信号を作る。エージェントは観測者がいる場所に来られない。逆に言えば、誰も観測していない状態を意図的に作れば、エージェントも検知できないかもしれない」


 一ノ瀬の目が、わずかに光った。


「……密室実験か」


「今夜、試してみる。お前も来るか」


「行く」


 即答だった。


――


 旧校舎の奥に、使われていない準備室があった。


 鍵は一ノ瀬が持っていた。いつ入手したのかは聞かなかった。


 扉を閉める。窓のない部屋。完全な暗闇。


 懐中電灯の光だけが、狭い空間を照らしている。


「扉を閉めたら、この部屋を観測している人間は俺たちだけになる」


「ああ」


「まず、部屋の解像度を確認する。隅を見てくれ」


 一ノ瀬が懐中電灯を隅に向けた。


 俺は息を止めて、壁の表面を見た。


 ……粗い。


 廊下の壁より、明らかに粗い。塗装の質感が、近くで見るとぼやけている。誰も来ない場所だから、システムが描画の精度を落としている。


「見えるか」


「ああ。テクスチャが甘い」


「これが基準だ。ここから俺が外部のコードを走らせたとき、部屋の質が変化するか観察してくれ」


 俺はスマホを取り出し、解析コードを起動した。


 画面に走る緑の文字列。


 ゆっくりと、変数を入力していく。物理定数ではなく、もっと小さな数値。この部屋の空気密度。温度。光の減衰率。極めて局所的な、この密室だけの数値を。


 システムへの「囁き」だ。怒鳴るのではなく。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒——。


「……おい」


 一ノ瀬の声が、低くなった。


「壁が、変わった」


 俺も見た。


 隅の壁の、粗かったテクスチャが、一瞬だけ鮮明になった。まるで画像の解像度が、突然4Kに切り替わったみたいに。


 そしてすぐに、また粗く戻った。


「応答した」


 俺は呟いた。


「システムが、このコードを受け取った。エージェントは来ていない。密室だから、検知されていない」


 一ノ瀬が、静かに息を吐いた。


 そのとき。


 扉が、開いた。


「ちーちゃん!? こんなとこで何してんの!?」


 陽菜だった。


 懐中電灯の光の中に、陽菜が立っている。その視線が、俺と一ノ瀬を交互に見て——壁に向いた。


 壁はすでに、元の粗いテクスチャに戻っている。


 だが。


 陽菜の目が、わずかに細くなった。


「……なんか、さっきと壁の色、違くない?」


 俺は、息を止めた。


 陽菜が。


 テクスチャの変化を、見ていた。


「気のせいだ」


「そう……かな」


 陽菜はもう一度壁を見て、それから首を振った。


「ていうかなんで暗い部屋で二人きりなの!? 意味わかんないんだけど!?」


 叫び声が、狭い準備室に響いた。


 一ノ瀬が、静かに言った。


「実験だ」


「実験!? どんな!?」


「説明が長くなる」


「するの! 今すぐ!」


 俺は懐中電灯を持ちながら、脳内で静かに整理していた。


 陽菜は、見えた。


 テクスチャの変化を、見えた。


 それはつまり——陽菜もまた、ただのNPCではないということだ。


 あるいは。


 陽菜もまた、「観測者」である、ということだ。


 廊下から差し込む夕日の中で、陽菜が腕を組んで仁王立ちしている。


 その後ろに、薄く——文字が浮かんだ。


 俺にしか見えない、小さな文字が。


 《PlayerID:#002》


 瞬きをしたら、消えた。


 #002。


 では、俺は。


 #001か。


 そして——ちひろは、どの番号だ。

お読みいただきありがとうございます。

このところ雨が続いてますなぁ。

頭痛持ちなので気圧の変化で頭がめちゃくちゃ痛くなる時があります。

どーでもいい情報でした。

次回もお楽しみに!

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