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1-6「これはカウントダウンだ」

朝、目が覚めた瞬間から、昨夜の問いが頭の中にいた。


 ちひろのメッセージへの「返信」が、俺なのか。


 天井を見上げる。白い。角に小さなシミがある。この部屋に来て何日も経つのに、まだ「自分の部屋」という感覚がない。当たり前だ。俺の部屋じゃない。


 でも今は、それより気になることがある。


 仮に俺がちひろの「送信」に対する返答として、この世界に引き寄せられたとしたら——それは誰がやった? ちひろ自身か? それとも、この世界の設計者か?


 スマホが震えた。


【陽菜:おはよー! 今日早起き! 駅7時半ね!】


 四十三年分の思考回路が、陽菜のLINEによって一瞬でリセットされた。


 ……こいつの存在は、ある意味どんなエラーよりも強力だ。


――


 数学の授業は三限目だった。


 教師が黒板に円周率を書き始めたのは、授業開始から十分後のことだ。


「円周率は無限に続く非循環小数です。パターンが存在しないことが、その本質的な性質です」


 俺はシャープペンシルを止めた。


 黒板に書かれた数字を、目で追う。


 3.14159265358979323846……


 653。


 ある。


 …14159**265**35897932384**6264**…


 待て。653だけじゃない。


 俺はノートに板書を書き写しながら、慎重に数字を数えた。


 3の次から数えて七桁目から「265」。さらに続けて「3589793」を挟んで「2384」「6264」……。


 違う。653という三桁の数列だけを探していたが、もっと大きなパターンがある。


 俺は余白に書き出した。


 265・358・979・323・846・264……


 三桁ずつに区切ると、ある配列が浮かび上がる。


(……これ、アドレスじゃないか)


 IPアドレス。ネットワーク上の「住所」を示す数字の並び。


 本来のIPアドレスは0から255までの数字が四つ並ぶ形式だが、この世界の「座標系」が違えば、表記も違うかもしれない。


 ちひろは「出口の座標」と書いていた。


 座標。アドレス。場所を示す数字。


 俺の手が、微かに震えた。


「藤田さん、何か気づきましたか」


 教師の声に、心臓が跳ねた。


 クラス中の視線が集まる。


「……いえ。計算を確認していました」


「そうですか。では続けましょう」


 視線が散っていく。


 俺は息を整えながら、ノートの余白に小さく書き込んだ。


 『265.358.979.323』


 これが、座標だとしたら。


――


 昼休み。


 俺は購買でパンを買い、陽菜より先に席を確保しようとした。


 失敗した。


「ちーちゃん、ちょっといい?」


 陽菜が、珍しく声のトーンを落として言った。周りの喧騒から少し距離を置くように、俺の机に寄りかかる。


「昨日さ、図書室から出てきたとき、一ノ瀬くんの顔見た?」


「……見てない」


「嘘。私、廊下ですれ違ったんだけど、なんか、いつもと違う顔してたよ」


 俺は黙った。


「あの人ってさ、基本ずっと無表情じゃん。でも昨日は、なんていうか……ちょっとだけ、困ったみたいな顔してた」


 一ノ瀬が困った顔。


 それは確かに珍しい。


「陽菜、何が言いたい」


「別に。ただ」


 陽菜はパンの袋を開けながら、少し間を置いた。


「ちーちゃんが誰かと話せてるの、久しぶりに見た気がして。それが嬉しいなって、思っただけ」


 俺は返事ができなかった。


 陽菜は「なんでもない」という顔で笑い、パンを一口食べた。


 ……この子は、本当に何も知らないのか。


 あるいは、知っていて、知らないふりをしているのか。


 どちらにしても、今の一言は「NPCには言えないセリフ」だった。


――


 放課後、旧校舎の非常階段。


 今日は一ノ瀬の方が先に来ていた。


「数学の授業で何か気づいたな」


 座るより先に言われた。


「見てたのか」


「君の手が止まった。あの速度で止まるのは、何かを発見したときだ」


 俺はノートを開き、余白のメモを見せた。


 一ノ瀬は黙って数字を眺めた。


「三桁区切りのアドレス表記か」


「そう読んだ。合ってるかはわからない。でも、ちひろが『座標』と呼んでいたなら、何らかの位置情報のはずだ」


「……俺も似たことを考えていた。でも一つ、引っかかってる」


「なんだ」


 一ノ瀬は手すりに手を置き、下を見た。中庭に、部活帰りの生徒が何人か歩いている。


「ちひろがこの数列を発見したのは、実験データを何百回も取り直した末のことだ。偶然じゃない。意図的に探した」


「ああ」


「では、なぜ円周率の中にこの数列が埋め込まれているんだ。この世界の設計者が『座標』を数式の中に隠したとして、それは誰かに見つけてほしかったからじゃないのか」


 俺は息を止めた。


「見つけてほしかった……」


「座標は、行き先を示すものだ。でも、行き先を示したい相手がいるとしたら——それは内側の住人じゃなくて、外から来た誰かに向けてじゃないか」


 外から来た誰か。


 俺だ。


「つまり、このアドレスは俺に向けて埋め込まれていた、と言いたいのか」


「仮説だ。でも、ちひろが通信口を探していたことと、君が外から来たこと、そしてこの数列が円周率という『誰もが触れる数式』の中にある——これは偶然にしては、筋が通りすぎてる」


 一ノ瀬の声は淡々としていた。だがその言葉の重さが、夕暮れの空気の中にゆっくりと沈んでいく。


 俺は中庭を見下ろした。


 生徒たちが笑いながら歩いている。この世界の住人たちが、何も知らずに「今日」を生きている。


「一ノ瀬」


「なんだ」


「お前は、怖くないのか。この世界が作り物だって知って」


 一ノ瀬は少しだけ黙った。


「最初は怖かった。でも今は違う」


「何が変わった」


「ちひろが消えた」


 それだけだった。


 説明も補足もない。でも、それ以上の言葉は要らなかった。


 ちひろが消えてから、一ノ瀬にとって「この世界が作り物かどうか」は、もう怖い問いじゃなくなったのだ。それより大きな問いが、目の前にあるから。


 俺は静かに頷いた。


「わかった。このアドレスの解読を進める。お前の記録と、俺のコードを合わせれば、何か見えてくるかもしれない」


「ああ」


「一つだけ聞いていいか」


「なんだ」


「お前が以前、外部との通信を試みて失敗したと言っていた。どんな方法で試した」


 一ノ瀬の指が、手すりの上で静かに止まった。


「……それは、また今度話す」


 今度、という言葉を、一ノ瀬はあまり使わない。


 使ったということは、話す気がある、ということだ。


 俺はそれ以上聞かなかった。


――


 帰り道。


 陽菜と並んで駅へ向かっていると、不意に彼女が足を止めた。


「あ、コンビニ。昨日の約束」


「昨日おごってもらったじゃないか」


「それはそれ。今日は今日」


 有無を言わさず腕を引かれ、コンビニに連れ込まれた。


 陽菜は迷わず棚の前に立ち、二本のシュークリームを取った。一つを俺に押しつける。


「ちーちゃんってシュークリーム好きじゃん」


(……知らなかった)


 とりあえず受け取った。


 レジを出て、並んで歩きながらシュークリームを食べる。夕暮れの住宅街。電線に鳥が止まっている。


「ねえ」


「なに」


「一ノ瀬くんのこと、好きなの?」


 また来た。


「違う」


「でも毎日話してるじゃん」


「話してない」


「してるよ。私、ちゃんと見てるから」


 陽菜はシュークリームを食べながら、横目で俺を見た。


「別にいいんだけどね。ただ、ちーちゃんが何か抱えてるなら、私にも言ってほしいなって」


 俺は足を止めた。


 陽菜も止まった。


「……抱えてるって、なんで思う」


「なんとなく。ちーちゃん、最近すごく、急いでるみたいな顔してるから」


 急いでいる。


 その言葉が、妙に正確だった。


「大丈夫だ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 陽菜はしばらく俺の顔を見てから、「わかった」と言って歩き出した。


 信じたのか、信じていないのか、わからない顔だった。


 でも、それ以上追及しなかった。


 俺は夕空を見上げながら、シュークリームを一口食べた。


 甘い。


 妙においしい。


 ちひろが好きだったものが、俺にもわかる気がした。


――


 夜、部屋に戻ってノートを開いた。


 『265.358.979.323』


 この数字を、どう使えばいい。


 俺はシャープペンシルを走らせ、いくつかの仮説を書き出した。座標系。暗号。アクセスキー。呼び出し番号。


 どれもしっくりこない。


 俺はペンを止め、目を閉じた。


 一ノ瀬の言葉が、もう一度頭の中で鳴った。


 ——座標は、行き先を示すものだ。でも、行き先を示したい相手がいるとしたら。


 待て。


 座標じゃなくて、呼びかけだとしたら?


 誰かが、この世界の外に向けて「ここにいる」と叫んでいる。その声が、円周率という形をとって、世界の数式に滲み出ている。


 設計者じゃない。


 もっと内側から、必死に外へ向けて手を伸ばしている誰かの声。


 ……ちひろか?


 俺は目を開けた。


 その瞬間。


 視界の端に、薄い文字が浮かんだ。


 《チュートリアル:2/3》


 瞬きをした。消えた。


 今度は、すぐに意味がわかった。


 これは案内じゃない。


 カウントダウンだ。

昨夜は体調を崩し投稿できませんでした。

今日からまた頑張って投稿していきますので

引き続き応援お願いします。

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