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1-5「彼女の声は、円周率の中で眠っていた。」

図書室は、放課後になると別の顔を見せる。


 昼間は司書の先生がいて、返却の声があって、ページをめくる音が散らばっている。でも今は違う。窓から差し込む夕日が本棚の背表紙を赤く染めて、埃の匂いだけが静かに漂っている。


 人がいない。


 つまり、解像度が低い。


 俺は入口で立ち止まり、室内をゆっくり見回した。棚の奥の方——誰も手を伸ばさないような、古い資料が詰まっているあたりの空気が、わずかに「薄い」。輪郭が、ほんの少しだけぼやけている。


 慣れてきた。この世界の「手抜き」に。


「遅い」


 窓際の席に、一ノ瀬がいた。


 机の上に、薄いノートが一冊置いてある。表紙には何も書いていない。


「……悪い。陽菜に捕まった」


「何を話した」


「文化祭の委員について三十分」


 一ノ瀬が、ほんのわずかに眉を動かした。


「……大変だったな」


「お前が笑うところだぞ、そこ」


「笑ってる」


 全然笑っていない顔で言った。俺は椅子を引いて、向かいに座った。


 ノートが、二人の間に置かれている。


「それが、ちひろの記録か」


「俺が書き写したものだ。本物は別の場所にある」


 一ノ瀬はノートを開いた。


 中には、細かい文字がびっしりと並んでいた。日付。時刻。場所。観測した「歪み」の内容。几帳面で読みやすい字だった。


「最初にちひろがこの世界の異常に気づいたのは、去年の秋だ」


 一ノ瀬の声は、いつもより低かった。


「きっかけは、理科の実験だった。振り子の周期を測定する実験で、ちひろは気づいた。振り子の動きが、コンマ数秒単位で『カクついている』と」


 俺は息を呑んだ。


 プランク時間。世界の最小単位。分割できない時間の「ピクセル」。滑らかに見えるこの世界が、実はデジタルな格子の上に乗っている証拠。


「普通の人間には気づかない。でもちひろは、何度測っても同じ場所に同じ引っかかりがあることを確認して、先生に報告した」


「先生は何と言った」


「器具の誤差だ、と。それで終わった」


 一ノ瀬はページをめくった。


「でもちひろは諦めなかった。自分でデータを取り続けた。振り子だけじゃない。水滴の落下速度。蛍光灯の点滅。時計の秒針。全部、同じ『カクつき』が存在することを確認した」


 俺は机の上に視線を落とした。


 去年の秋。一人で。誰にも信じてもらえないまま。


「……一人でやってたのか」


「俺が気づいたのは、それより三ヶ月後だ。ちひろの方が早かった」


 一ノ瀬の声に、何かが滲んだ。後悔に近い何かが。


「ちひろは俺にも話しかけてきた。『一ノ瀬くんは気づいてる?』って。最初は意味がわからなかった。でも話を聞いて、データを見て——確信した。俺たちは同じものを見ていた」


 俺は黙って続きを待った。


「それから二人で記録を続けた。歪みの場所、頻度、パターン。この世界には『観測されない場所』と『観測される場所』で明確に解像度が違う。それだけじゃなく、特定の数字が繰り返し現れることにも気づいた」


「特定の数字?」


 一ノ瀬はノートの後半を開いた。


 数式ではなく、数の羅列が並んでいた。


「円周率の中に、繰り返しのパターンがある。本来、円周率はランダムに続く無限小数のはずだ。でも、この世界で実測した円周率には、一定の間隔で同じ配列が現れる」


 俺は数字を目で追った。


 …3141592**653**5897932**653**846264**653**…


 653が、等間隔で出てくる。


「偶然じゃないのか」


「何千回測っても同じだ。しかも自然対数の底にも、同じ653が現れる。物理定数の中にも。ちひろはこれを『開発者のサイン』と呼んでいた」


 開発者のサイン。


 プログラマーが自分のコードにこっそり残す、署名のようなもの。


「……ちひろは、誰かに伝えようとした、と言ったな」


「ああ」


「誰に」


 一ノ瀬は、ページを閉じた。


「それが、わからない。ちひろは消える三日前から様子がおかしくなった。何かを急いでいるみたいで、メモを書いたり、俺に『もし私がいなくなっても記録を続けて』と言ったり」


「……『いなくなっても』と言ったのか」


「ああ」


 俺の胸の奥で、何かが冷えた。


 「いなくなる」ことを、ちひろは知っていた。予測していた。あのメモ帳の文章も、偶然書いたものじゃない。準備していたのだ。


「消える前日、ちひろは俺にこれを渡した」


 一ノ瀬はノートの最後のページを開いた。


 そこには一ノ瀬の几帳面な文字ではなく、丸みを帯びた別の筆跡があった。


 見覚えがある。


 あのメモ帳と、同じ字だった。


――「653は、出口の座標だと思う。私が正しければ、この数字の並びは世界の『境界線』への手がかりになる。でも私一人では辿り着けなかった。もし私がいなくなったら、続きをお願い」


 俺は、息を止めた。


「ちひろは、この世界から出ようとしたのか」


「そう思っていた。でも今は少し違う気がしている」


 一ノ瀬は窓の外を見た。夕日が沈みかけている。空の端が、じわりと暗くなっていく。


「出ようとしたんじゃなくて、『向こう側』に何かを伝えようとしたんじゃないか。出口ではなく——通信口として」


 俺は一ノ瀬の横顔を見つめた。


 この少年は三ヶ月間、この仮説を一人で抱えてきた。ちひろが消えてから、ずっと。


「一ノ瀬」


「なんだ」


「お前、ちひろのことが——」


 そのとき、図書室のドアが勢いよく開いた。


「いたー!! ちーちゃん、こんなところにいたの!?」


 陽菜だった。


 息を切らせて、制服のリボンが少し曲がっている。俺と一ノ瀬を交互に見て、一瞬だけ固まった。


「……え、二人でいるの? 図書室で? 二人きりで?」


「資料を借りにきた」


 即答したのは一ノ瀬だった。


「資料ってどんな?」


「数学の」


「数学の資料を二人きりで……ふーん」


 陽菜の目が細くなった。四十三年の処世術が全力で「これはまずい」と警報を鳴らす。


「陽菜、違う」


「何が違うの? 説明して?」


「だから数学の——」


「ちーちゃんが数学で自主的に図書室来るとか、少なくとも私は見たことないんだけど」


 返す言葉がなかった。


 一ノ瀬はノートを静かに鞄にしまい、立ち上がった。出がけに、俺だけに聞こえる声で言った。


「653の続きは、また今度」


 それだけ言って、陽菜の横をすり抜け、図書室を出て行った。


 残されたのは、俺と陽菜だ。


 陽菜は腕を組んで、じっと俺を見ている。


「……何?」


「別に」


「絶対何かある顔してる」


「してない」


 陽菜は椅子を引いて、俺の隣に座った。さっきまで一ノ瀬がいた席ではなく、わざわざ隣に。


 しばらく沈黙が続いた。


「ねえ、ちーちゃん」


「なに」


「最近、なんか……変わったよね」


 俺は動かなかった。


「前のちーちゃんって、もっとぼんやりしてた。授業中もどこか遠いとこ見てるみたいで。でも最近、なんていうか……目に力がある。何かをちゃんと見てる感じがする」


 陽菜の声は、いつもの軽さとは少し違った。


「……気のせいじゃないか」


「気のせいじゃない。あと、一ノ瀬くんと話してるのも初めて見た。あの人、ちーちゃんのこと気にしてたから」


「気にしてた?」


「うん。なんか、遠くから見てること多かったし。本人は絶対認めないだろうけど」


 俺は答えなかった。


 陽菜は立ち上がり、鞄を持った。出口のところで振り返る。


「まあ、いっか。ちーちゃんが元気そうで、私は嬉しい」


 そう言って、笑った。


 その笑顔が、あまりにも自然で、温かくて。


 俺は思った。


 NPCには、できない笑い方だ。


「帰り、コンビニ寄ろ。おごってあげる」


「……なんで」


「なんとなく」


 それだけ言って、陽菜は歩き出した。


 俺は立ち上がりながら、ふと思った。


 ちひろは、この子のことをどう思っていたんだろう。


 この温かさを、知っていたんだろうか。


――


 夜、部屋に戻ってから、俺はメモ帳を開いた。


 「私を探して」の文字を、もう一度なぞる。


 653。


 出口じゃなく、通信口。


 ちひろは外に出ようとしたのではなく、外に向かって何かを送ろうとしていた。


 では——誰に?


 俺は天井を見上げた。


 設計者がいる。開発者がいる。653というサインをこの世界の数式の中にこっそり埋め込んだ、誰かが。


 そしてその「誰か」に向けて、藤田ちひろはメッセージを送ろうとして消えた。


 俺はゆっくりとメモ帳を閉じた。


 窓の外で風が揺れた。カーテンが膨らんで、また静かに落ちた。


 探す。


 それだけは、決まっている。


 だがもう一つ、気になることがあった。


 ちひろが「向こう側」に伝えようとしていたメッセージは——まだ届いていないのか。


 それとも、すでに届いていて。


 その返信が、俺なのか。

毎回お読みいただきありがとうございます。

次回からも頑張りますので応援よろしくお願いします。

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