1-4「君は何者だ、とおじさんに聞いた。」
非常階段の踊り場。空気が、まるごと「固まった」ような錯覚。
校内放送のノイズが鼓膜を削る中、下から登ってきた「生活指導の教師」が、踊り場の数段下で足を止めた。
その顔には、目も、鼻も、口もない。
のっぺりとした肉色の曲面に、一瞬だけノイズが走り、無理やり「笑顔」のテクスチャが貼り付けられた。だが、それは筋肉の動きを無視した、左右非対称の吊り上がりだった。
「……気持ちわりいな。デバッグ不足にもほどがある」
俺は声を落としたまま、スマホをポケットに収めた。
横にいる一ノ瀬は表情こそ変えていないが、手すりを握る指先が白くなっている。
「……走れるか」
「走るのは得意じゃないと言ったはずだけど」
「今は関係ない。行くぞ」
俺は一ノ瀬の手首を掴み、踊り場を駆け上がった。
下から、重い足音が続いてくる。一段一段が、やけに規則正しい。人間の足音じゃない。メトロノームみたいに、等間隔すぎる。
「【対象の移動を検知。追跡シーケンスを開始します】」
抑揚のない声が、壁に反響した。
俺は走りながら、頭の中でこの状況を整理した。
奴は何だ。管理プログラム。ウイルスの検出と駆除を行う、システム側の自動処理。つまり「公式の機能」だ。正面から潰しにかかっても意味がない。公式に対抗するには、公式が想定していない「イレギュラーな手順」を踏むしかない。
階段を三階分駆け上がり、俺たちは非常口から廊下へ飛び出した。
放課後の廊下。生徒がまばらにいる。
のっぺらぼうは、この空間には現れない。
俺は立ち止まり、息を整えた。
「……追ってこない?」
一ノ瀬が振り返る。廊下の向こう、非常口のドアは静かに閉まったままだ。
「人目のある場所には出てこない。観測者が多いほど、世界は『正常』に振る舞おうとする。量子力学と同じだ。誰かが見ている間は、ちゃんと計算する」
「……だから非常階段だったのか。あそこは人が来ない」
「そういうことだ」
俺は壁に背中を預け、ゆっくりと息を吐いた。
心臓がうるさい。四十三年生きてきて、こんな走り方をしたのはいつ以来だろう。もっとも、今の心臓は十七歳のものだが。
一ノ瀬が、静かに口を開いた。
「……さっき、スマホに何かを入力していた。あれは何だ」
「解析コード。あの夜——俺が死ぬ直前まで書いてたやつだ。この世界の変数に、外部から干渉できないか試していた」
「変数……物理定数か?」
「ああ。重力定数に割り込もうとした。でも、本格的に使う前に逃げることになった」
一ノ瀬はしばらく黙った。
廊下の端で、誰かが笑い声を上げている。部活の帰りか、普通の放課後の音だ。この数分前に起きたことと、その音が、恐ろしいほど乖離している。
「……君は、本当に外から来たんだな」
一ノ瀬の声に、初めて「重さ」が混ざった。確認ではなく、実感として言っている。
「ああ。俺は佐藤剛。四十三歳。職業はエンジニア。雨の夜に車に跳ねられて、気づいたらこの身体にいた」
言葉にすると、改めて自分の状況が馬鹿らしくなった。
一ノ瀬は小さく頷いた。
「俺はずっと一人でこの世界の歪みを記録してきた。外の人間と繋がれると思って、何度か試みたが、全部失敗した。……君が来るまで」
「俺が来るまで、か」
「君が来た日から、世界の『エラーログ』が増えている。放送のノイズもそうだし、さっきの奴も今まで一度も現れなかった。君という異物が、システムに負荷をかけている」
俺は天井を見上げた。
蛍光灯の白い光。何の変哲もない学校の廊下。
「……つまり、俺がいるだけでこの世界は不安定になる」
「そう思う」
「でも、俺が消えれば解決するかといえば、そうじゃない」
「なぜ?」
「だって、ちひろがいなくなってる。それ自体がすでにエラーだ。俺はその結果として来たのか、あるいは原因として来たのか、まだわからない。でも、ちひろを見つけるまでは消えるわけにいかない」
一ノ瀬は、俺をじっと見た。
さっきまでの超然とした目じゃない。何かを測るような、でも少しだけ「信頼に近いもの」が混ざった目だった。
「……一つ、聞いていいか」
「なんだ」
「君は、ちひろのことを知っているか。本人として、ではなく」
俺は答えに詰まった。
藤田ちひろ。学生証の名前。メモ帳の丸文字。「お母さん」の声。陽菜の笑顔。プリクラ。教科書の書き込み。
知っているのは、全部「残されたもの」だ。本人を知っているわけじゃない。
「……知らない。ほとんど何も」
「そうか」
一ノ瀬は窓の外に目を向けた。夕暮れが始まっている。オレンジ色の光が廊下の床を斜めに切っている。
「俺は知ってる。ちひろのことを」
その一言が、静かに、でも確実に俺の胸に刺さった。
「……どういう意味だ」
「彼女は、ずっとこの世界の歪みに気づいていた。俺よりずっと前から。そして、誰かに伝えようとして——消えた」
廊下の向こうで、また誰かが笑っている。
普通の放課後の音。
なのに今の俺には、その笑い声が、ひどく遠い場所から聞こえる気がした。
「一ノ瀬」
「なんだ」
「お前、ちひろのことが——」
「放課後、図書室に来てくれ」
一ノ瀬は俺の言葉を遮るように言った。そして、何事もなかったように歩き出す。
その背中に、俺は声をかけそびれた。
……聞かなくてもわかった気がした。
一ノ瀬蓮がこの世界の歪みをずっと独りで記録してきた理由が。
俺はため息をついて、スカートの裾を直した。
四十三歳のおじさんが、十七歳の少女の身体で、夕暮れの廊下に一人残されている。
滑稽だ。
だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
【陽菜:ちーちゃん今どこ!? 一緒に帰ろ!!】
俺は画面を見て、少しだけ笑った。
それから、ゆっくりと返信を打った。
今すぐ行く、と。
――
図書室の約束は、明日だ。
今夜は、もう一度あのメモ帳を読み返す。
藤田ちひろ。お前はどこへ行った。
何を知っていて、誰に伝えようとして、なぜ消えた。
俺はまだ、お前のことを何も知らない。
でも、一つだけわかったことがある。
お前のことを探している人間が、俺だけじゃないということ。
夕暮れの廊下に、二人分の影が伸びていた。
お読みいただきありがとうございます。
2つの作品を手掛けていて少々大変ですが、
読んでいただけるだけで嬉しいのでとても励みになり
がんばれます!
次回もお楽しみに。




