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1-3「コリジョンエラーと君の笑顔」

電車のドアが閉まった瞬間、車両の空気がわずかに振動した。


 ガタン、と重い金属音が響く。だが、その余韻は妙に短かった。まるでスタジオの防音壁に吸い込まれるように、不自然に減衰していく。


 一ノ瀬蓮の言葉が、耳の奥で反響を続けている。


「……中身、誰だ?」


 その問いに、俺――藤田ちひろの身体を借りている佐藤剛は、返答を窮した。


 隣では陽菜が「え、一ノ瀬くんがちーちゃんに話しかけるなんて珍しくない!?」と、能天気にスマホを叩いている。彼女には、今の会話に混ざっていた致命的な「ノイズ」が聞こえていない。


「ちーちゃんって一ノ瀬くんと仲よかったっけ? ねえ、どんな話したの?」


「……べ、別に。ちょっと立ち位置が被っただけ」


「嘘くさ~い。顔赤いじゃん」


 俺は思わず頬に手を当てた。


 熱い。


 四十三年生きてきて、顔が勝手に赤くなるという経験を、この身体でするとは思っていなかった。生理的反応というのは、意識でコントロールできない。それだけ、この身体は「藤田ちひろ」として完璧に機能している。


(……厄介な仕様だ)


「もしかして、好きなの?」


「ち、違う!」


 素で叫んでしまった。


 周囲の生徒が数人、こちらに視線を向ける。一ノ瀬は窓の外を見ており、こちらに背を向けたままだ。それだけが救いだった。


 陽菜はころころと笑った。


「冗談だって。でも、ちーちゃんが大声出すの久しぶりに見た気がする」


 その一言が、静かに刺さった。


 陽菜は「藤田ちひろ」が最近どこか変だということに、ちゃんと気づいているのだ。ただ、追及しない。笑顔のまま、そっと距離を保っている。


 それが「親友」なのかもしれない、と俺は思った。


 NPCと断言するのは、まだ早い。


――


 学校に到着してからは、地獄のような「ロールプレイング」だった。


 靴箱の場所、教室の座席、授業のノートテイク。藤田ちひろの記憶が「キャッシュ」から引っ張り出されるように指先を動かし、俺は辛うじて周囲に溶け込んでいく。


 一限目の数学の授業。


 教壇に立つ教師が黒板に数式を書きなぐっている。二次関数。四十三歳のおじさんにとっては、二十年以上前の懐かしい遺物だ。


 斜め前の席の女子が、消しゴムを落とした。


「あ、拾う」


 反射的に手を伸ばしたら、同じタイミングで隣の席から腕が伸びてきた。


 一ノ瀬だった。


 指先が、かすかに触れた。


「……あ」「……」


 一ノ瀬は無表情のまま消しゴムを拾い、前の席に渡した。それだけのことだった。それだけのことなのに、またこの身体の頬が熱くなる。


(な、なんで……! 俺は四十三歳だぞ!)


 自分で自分に怒鳴りながら、俺はノートに視線を落とした。


 そして気づいたら、余白にペンが走っていた。


 書いたのは、数学の解ではない。あの夜、死の直前まで書いていた解析コードの断片だ。


 『while(self.existence == True):』


 もし、この世界がコードで記述されているなら、俺の意識もまた一つのポインタとして存在しているはずだ。外部から持ち込まれた「イレギュラーな変数」。それが俺だ。


 書き終えた瞬間、ノートの紙面が一瞬だけチラついた。


(……エラーが出てる)


 胸が高鳴った。


 あえて過負荷をかけてシステムのレスポンスを引き出す。現実でも使った手だ。この世界にそぐわない「外部のロジック」を物理的に干渉させれば、必ず反応が返ってくる。


――


 昼休み。


 陽菜たちとのランチは、予想以上に消耗した。


「ちーちゃん、今日なんか食欲ある? 最近ちゃんと食べてる?」


「食べてる食べてる」


「ほんとに? じゃあこれ、半分食べて」


 陽菜が自分のパンを俺の机に置いた。


 クリームチーズ入りの惣菜パン。四十三年の人生で培った食の好みとは、まったく異なる甘さだ。だが、なぜか口に合った。


「……おいしいな、これ」


「でしょ! 売り切れる前に買わないとだよ」


 陽菜が得意げに胸を張る。その横顔が、やけに眩しかった。


 NPCじゃない、と思った。少なくとも、俺にはそう見えた。


 それと同時に、罪悪感が波のように押し寄せた。


 陽菜は今、「藤田ちひろ」に話しかけている。だが、ここに「ちひろ」はいない。いるのは、四十三歳のおじさんだ。彼女の優しさは、俺に向けられているわけじゃない。


(早く、ちひろを探さないといけない)


 メモ帳の文字が、頭の奥でまた光った。


――


 昼休みの終わり際、俺は一人、旧校舎の非常階段へと向かった。


 ここは生徒があまり立ち寄らない。世界の「描画優先順位」が極めて低い場所だ。


 錆びついた手すりに触れる。


 ざらりとした冷たい感触。だが、指先を強く押し当てると、表面のテクスチャがわずかに滑った。まるで壁紙の糊が剥がれかけているように。


「——そこ、物理判定が甘いよ」


 上から声が降ってきた。


 見上げると、一ノ瀬が踊り場で文庫本を読んでいた。


 俺はじっと彼を見た。


「……昼休みも、ここにいたのか」


「毎日いる。静かだから」


 一ノ瀬は本を閉じ、ゆっくりと降りてきた。隣に並ぶと、思ったより背が高かった。


「君も、エンジニアだったりするのか?」


 一ノ瀬は少しだけ目を細めた。その表情が、わずかに「普通の高校生」に見えた瞬間だった。


「まさか。ただの高校生だよ。……でも、この世界の違和感に気づいてから、外の人間と繋がろうとして、ずっと失敗してきた。その繰り返しだ」


 彼は手すりの一点を指差した。


「そこを三回叩いて、斜め上に体重をかけてみて」


 俺は言われた通りにした。


 三回、コツ、コツ、コツ。右肩に力を入れる。


 その瞬間――。


 右腕が、鉄の手すりを突き抜けた。


「……っ!?」


 痛みはない。腕があったはずの場所が、透明な水に潜らせたように冷たく、無機質な感覚に包まれている。ポリゴンを貫通して、腕が虚空へと消えている。


「コリジョンの欠落だ。座標の繋ぎ目がずれてる。管理者がパッチを当てるのを忘れてる」


 俺は震える手で腕を引き抜いた。


 形は戻っている。だが、指先には「この世界の薄さ」が、拭いきれない感触として残っていた。


「一ノ瀬、お前はどこまで知っている」


「……この世界は、誰かの思考実験だということ。そして、外から混ざり込んだ異物が存在することで、崩壊が加速し始めているということ」


 一ノ瀬の瞳に、初めて鋭い光が宿った。


「藤田ちひろ……いや、君。君が何者かはまだわからない。でも、君の目の中には、この世界の外側を知っている人間の色がある」


 彼は一拍置いた。


「君が持っている『外部のロジック』を、貸してくれないか。この世界の壁の向こうを、俺は見たい」


 そのとき、校内放送が鳴り響いた。


 いつものチャイム。だが、その音が途中でノイズを孕み、狂ったようにループし始める。


『ピンポンパンポン……ピンポンパンポン……エラー……セッションが切断されました……』


 階段下の廊下を、生活指導の教師が歩いてくるのが見えた。


 のっぺらぼう。


 あの夜の道路で、意識が途切れる寸前に見た、テクスチャのない顔と同じだった。


「……来やがったか」


 俺はカバンからスマホを取り出した。画面に指を走らせる。


「何をするつもり?」


 一ノ瀬が小声で聞いた。その声に、かすかに緊張が混ざっていた。さっきまでの超然とした雰囲気が、少しだけ崩れている。


 俺は小さく笑った。


「走る。本気で」


「……女子高生が?」


「四十三歳のおじさんが、女子高生の身体を借りて、だ」


 一ノ瀬が、初めて「ぷっ」と噴き出した。


 ほんの一瞬だったが、確かに笑った。


「……わかった。付き合う」


「掴まってろ」


 俺は走り出した。


 スカートが翻る。ローファーがコンクリートを蹴る。風が、髪を乱す。四十三年分の判断力と、十七歳の身体のスペック。その歪な組み合わせが、廊下を駆け抜けていく。


 おじさんの知識と、JKの身体と、一ノ瀬という相棒。


 この歪なパーティが、初めて「世界の管理者」と対峙する瞬間だった。


 ――デバッグを、開始する。

これからも頑張りますので

応援よろしくお願いいたします。

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