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1-2「観測者の目をしていると、彼は言った。」

朝食は、味噌汁だった。


 豆腐と油揚げ。ネギが少し。どこにでもある、普通の味噌汁。


 俺はテーブルの前に座り、湯気の立つ椀を両手で持ちながら、ひたすら「この状況をどう乗り切るか」を考えていた。


 向かいで「お母さん」がトーストにバターを塗っている。朝のワイドショーが流れている。誰かが天気予報を読み上げている。


 ――全部、リアルだ。


 匂いも、音も、指先に伝わる椀の熱さも。夢でこれだけの細部を再現できるとは思えない。だとすれば、ここは現実だ。俺が四十三年間過ごしてきたあの現実とは別の、しかし確かに「現実」と呼んでいい何かだ。


「ちひろ、今日は陽菜ちゃんと一緒に帰ってくるの?」


 声をかけられ、俺は一瞬固まった。


「……た、たぶん」


 我ながら、よく声が出た。


 お母さんは特に疑う様子もなく「そう、じゃあ夕飯は七時ね」と言って、スマホに目を落とした。


 俺は味噌汁を一口すすった。


 うまい。


 ちゃんと、うまい。


 それが、なぜか少しだけ怖かった。


――


 洗面所の鏡に向かい、俺は人生で初めて「女子高生の身支度」という無理ゲーに挑んでいた。


 この身体――藤田ちひろの記憶が、指先にわずかに残っている。ブラジャーのホックを止める。スカートのホックを合わせる。リボンを結ぶ。その一つひとつの動作に、筋肉が「知っている」とでも言うように滑らかに応答する。


 頭で考えるより先に、身体が動く。


 脳の奥で《チュートリアル》の文字が明滅するような錯覚を覚えたのは、おそらくそのせいだ。


 鏡の中の少女と目が合う。


「……計算が合わない」


 思わず声が出た。


 考えてみれば、これだけの情報量を処理するのは不自然だ。朝食の味。湯気の温度。身体の動き方の記憶。「お母さん」の声のトーン。細部が多すぎる。完璧すぎる。


 俺は洗面台の縁に指を触れた。


 冷たい陶器の感触。毛穴一つ見えない、なめらかすぎる肌。完璧すぎる「レンダリング」。


 だが、俺は知っている。完璧すぎるものは、どこかに必ず「歪み」を隠している。


――


 玄関を出ると、外気は春のそれだった。


 湿度、温度、そよ風に混ざる花の香り。


 五感のすべてが「本物だ」と主張している。


 だが、俺は歩きながら、意識的に「視点を固定」した。エンジニアとして、二十年近くシステムの裏側を見てきた人間の習慣だ。何かを確かめたいとき、まず「見えていない場所」を疑う。


 駅へ向かう通学路。角を曲がる瞬間、俺は全神経を注いで背後を振り返った。


「……やっぱりだ」


 今、俺が曲がった角の先。そこにあったはずの並木道が、一瞬だけ「真っ白な空間」から再構築されるのを見た。


 コンマ数秒の遅延。


 神は――あるいはこの世界のホスト・コンピュータは、観測者である俺の視界から外れたオブジェクトの演算を、容赦なく「破棄」している。


 メモリの節約だ。この広大な世界を維持するために、見えていない場所を存在させないことでリソースを浮かしている。


 量子力学の教科書に書いてあった言葉が、脳裏をよぎった。


 ――「観測されるまで、粒子の状態は確定しない」。


 二重スリット実験。観測者がいるときだけ、粒子は「粒子」として振る舞う。誰も見ていないとき、それはただの「可能性」として漂っている。


 俺はゆっくり息を吐いた。


 「神は、観測者がいるときだけ真面目に計算している」。


 それがこの世界のルールなら、俺が今やったことは、そのルールの「綻び」を目撃したということになる。


「ちーちゃん! おはよ!」


 背後から飛んできた明るい声に、心臓が跳ねた。


 藤田ちひろの親友――陽菜だ。


 短いスカートに、少し崩したブレザー。弾けるような笑顔。典型的な「スクールカースト上位」の記号を纏った少女が、俺の腕に遠慮なく抱きついてくる。


「っ……あ、ああ。おはよう、陽菜」


 高い声。女の距離感。


 鼻を突く甘い香水の匂いに、四十三歳のおじさんの理性が「これはセクハラじゃないのか?」と警報を鳴らした。だが、周囲の生徒たちは、この光景を「日常」としてスルーしている。


「ねえ、昨日送ったLINE、見た? 俊介がさー、文化祭の委員、ちーちゃんも一緒にやろうって。ね、やろうよ、絶対楽しいって」


「……ああ、文化祭か」


 俺は陽菜の顔を見ながら、脳内で静かに分析を走らせた。


 陽菜は饒舌に喋り続ける。だが、エンジニアの目で見れば、彼女の語彙は一定のパターンに基づいているのがわかる。


 「ウケる」「マジで」「最悪」。


 感情を表す単語の種類が、驚くほど少ない。


 彼女は人間じゃないのか? それとも、「平均的な女子高生」というパラメータに従って動かされているNPCなのか?


 ……いや、それは違う。


 俺は自分の思考に待ったをかけた。


 陽菜の目を、改めて見る。茶色い目。よく動く。笑うとき、目尻に小さな皺が寄る。


 「藤田ちひろの親友」というロールをこなしているだけの存在が、この目をするだろうか。


 わからない。まだ、わからない。


――


 駅のホームに着くと、大勢の生徒が電車を待っていた。


 陽菜が知り合いを見つけて「ちょっと待って」と駆けていく。俺は一人でホームの端に立ち、無意識に周囲を観察した。


 そのとき、視界の端に違和感があった。


 ホームのベンチに座っている一人の少年。


 一ノ瀬蓮。


 クラスの名前と顔が、ちひろの記憶からうっすらと浮かぶ。成績優秀。口数が少ない。「変わり者」と陽菜が言っていた気がする。


 彼だけは、周囲の「最適化された日常」から浮いていた。


 スマホを眺めることも、誰かと話すこともせず、ただじっと、ホームの床を這う「影」を観察している。


 光と影の境界線。


 俺には、彼が何を見ているのかわかった気がした。


 電車が滑り込んでくる。


 轟音。風圧。髪が揺れる。


 その瞬間、俺は見てしまった。


 電車の窓ガラスに映る、自分自身の姿。


 藤田ちひろの顔をした「俺」の背後に、一瞬だけ浮かび上がった文字。


 《ERROR:Unauthorized Access Detected》


「……え」


 息が止まった。


 反射的に振り返る。背後には誰もいない。普通のホーム。普通の朝。


 だが、あの文字は確かにあった。


 誰かが、俺を――「不正アクセス」と認識している。


「藤田」


 不意に、名前を呼ばれた。


 陽菜ではない。


 いつの間にか隣に立っていた一ノ瀬が、感情の読めない瞳で俺を覗き込んでいた。


「……君、さっきから見ている場所が変だよ。普通は電車の時間を気にする。でも君は、空気の屈折率を測るような目をしてる」


 心臓が、強く打った。


 この少年は、俺と同じ「バグ」を見ている。


「一ノ瀬……君は、何を」


「ここ、解像度が低いだろ」


 一ノ瀬は電車に足を踏み入れながら、声を落とした。


「特に、人の『意思』が関わらない場所ほど。誰も注目しない壁の模様。誰も見ない空の端。そういう場所の細部が、他と比べて妙に粗い」


 俺は息を呑んだ。


 それは俺がこの朝ずっと感じていたことと、完全に一致していた。


「今の藤田は、観測者の目をしている」


 一ノ瀬はドアが閉まる直前、静かに言った。


「……中身、誰だ?」


 ドアが閉まる。


 電車が動き出す。


 俺は、震える手でカバンの中のメモ帳を握りしめた。


 ――「もし、私じゃない誰かがここにいるなら、お願い。私を探して」。


 物語の仕様書は、俺の知らないところで、すでに書き換えられていた。

本日第二話です。

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