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1-8「#001と#002と、知らない番号」

朝、スマホの画面を見ながら、俺は昨夜から同じことを考え続けていた。


 《PlayerID:#002》。


 陽菜の頭上に浮かんだ、あの文字。


 プレイヤーが複数いる。俺が#001だとすれば、陽菜は#002だ。では#003は? あるいは#000は? そして——ちひろは、どの番号だったのか。


 スマホが震えた。


【陽菜:おはよー! 昨日はなんか変なとこに引っ張り回してごめんね! 今日は普通に帰ろ!】


 普通に。


 その一言が、やけに重く見えた。


 昨夜、陽菜はあの準備室で「壁の色が違くない?」と言った。テクスチャの変化を感知した。それは「普通」の人間にはできないことだ。陽菜は自分が何かを見たことを、たぶん自分でもわかっていない。


 教えるべきか。


 俺は返信を打たずに、スマホを伏せた。


――


 一限目の前に、一ノ瀬を捕まえた。


 廊下の端。声を落として話す。


「陽菜に伝えるべきだと思う。PlayerIDのことを」


 一ノ瀬は即座に答えた。


「反対だ」


「理由を聞かせろ」


「陽菜はまだ、自分がプレイヤーだという事実を処理できる状態にない。昨夜の反応を見ただろう。壁の変化を見て、一瞬だけ固まった。あの顔は——知りたくないものを見てしまった人間の顔だ」


 俺は一ノ瀬の言葉を咀嚼した。


 間違っていない。陽菜はあの瞬間、明らかに動揺していた。でも、それをすぐに「気のせいかな」で処理して笑顔に戻った。その切り替えの速さが、むしろ怖かった。


「だとしても、知らないままでいる方が危険だ」


「なぜ」


「エージェントがアップデートしている。活動範囲が広がっている。陽菜がPlayerIDを持っている以上、エージェントに認識される可能性がある。知識がない状態で遭遇したら、対処できない」


 一ノ瀬は少し黙った。


「……それは、そうだ」


「だから伝える。伝え方を慎重にする。それで妥協できるか」


 一ノ瀬はしばらく廊下の先を見ていた。


「……陽菜が傷つくとしても、か」


「傷つかせたくないなら、なおさら早い方がいい。知らないまま傷つく方が、ずっとひどい」


 一ノ瀬は何も言わなかった。


 でも、否定もしなかった。


 それが答えだった。


――


 放課後。


 陽菜を呼び出したのは、旧校舎ではなく屋上だった。


 人目がある方がいいと思った。広くて、逃げ場がある方がいいと思った。四十三年生きてきた経験が「密室で重大な話をするな」と言っている。


 陽菜は屋上のドアを開けた瞬間、俺と一ノ瀬が並んで立っているのを見て、足を止めた。


「……なに、二人揃って。裁判?」


「違う」


「でもその顔、絶対なんか重大なやつじゃん」


「重大ではある」


 陽菜は少し迷ってから、近づいてきた。フェンス際に三人で立つ。夕暮れが始まっている。空がオレンジから紫に変わりかけている。


「昨日、準備室で壁の色が変わるのを見たな」


「……うん。見た。気のせいだと思ったけど」


「気のせいじゃない」


 陽菜の肩が、わずかに固まった。


「あれは、俺がこの世界のシステムに干渉した結果だ。テクスチャの解像度が一瞬上がった。それを、お前は感知した」


「……感知?」


「普通の人間には見えない。でもお前には見えた。それには理由がある」


 俺は一度、息を吸った。


「お前には、PlayerIDがある。#002だ」


 沈黙。


 陽菜は俺を見て、一ノ瀬を見て、また俺を見た。


「……PlayerID」


「この世界を、外側から認識できる存在に付与される番号だ。俺は#001だ」


「……えっ」


 陽菜の顔が、ゆっくりと混乱していく。


「えっ、ちょっと待って。私って……ゲームのキャラなの?」


「違う」


「でも番号つきじゃん!」


「それも正確じゃない」


「じゃあなんなの!? わかるように言って!?」


 俺は言葉を選んだ。この説明は、一度で正確にやらないといけない。


「この世界はシミュレーションだ。コードで記述された空間だ。その中で、外部から来た意識——つまり俺みたいな存在を識別するためのラベルがPlayerIDだ。お前がそれを持っているということは、お前もまた『この世界を外側から認識できる何か』だということだ」


「……何か」


「まだそれ以上はわからない。でも、お前は昨日、世界の変化を感知した。この世界の住人には、できないことだ」


 陽菜はしばらく黙っていた。


 風が吹いた。茶髪が揺れた。夕日が、陽菜の横顔を赤く染めている。


「……私、ちひろのことを探してるって言ったじゃん」


「ああ」


「なんで探してるのか、自分でもよくわからないって言ったじゃん」


「言った」


「それも……関係してるの?」


 俺は答えた。


「たぶん、そうだ」


 陽菜は、ゆっくりと息を吐いた。


 それから、突然笑おうとした。いつもの、明るい笑い方で。


 でも、笑えなかった。


 口の端が上がりかけて、止まった。目が、わずかに光った。


「……ちょっと待って。泣くのは違くない? なんで泣きそうなの、私」


「泣いていい」


「よくない。意味わかんないもん。何が悲しいのかもわかんないのに泣くのは違う」


 でも目から、一粒だけ落ちた。


 陽菜は慌てて袖で拭いた。「最悪」と呟いた。


 俺は次の言葉が出てこなかった。


 四十三年の人生で、それなりに修羅場を潜ってきた。クライアントの怒号も、理不尽な納期も、人間関係の地雷も。でも今のこの状況は、全部と種類が違う。


 泣いている女の子を、どうすればいい。


 しかも、泣かせた原因は俺だ。


 一ノ瀬が、静かに口を開いた。


「陽菜」


 珍しく、名前を呼んだ。


 陽菜が顔を上げた。


「お前がここに存在していることは、事実だ。PlayerIDが何を意味するにしても、今ここで泣いていることは、事実だ。事実は変わらない」


 陽菜は一ノ瀬を見た。


 一ノ瀬は相変わらず無表情だったが、視線だけは陽菜をまっすぐに見ていた。


「……一ノ瀬くんって、たまにすごいこと言うよね」


「そうか」


「そうだよ。なんで普段から喋らないの」


「必要な時だけ喋る」


「それ絶対モテないやつ」


「……そうかもしれない」


 陽菜が、小さく笑った。


 今度は本物の笑いだった。涙が乾く前の、少し歪んだ笑顔。


 俺は息を吐いた。


 場が、少しだけほぐれた。


「一個だけ聞いていい?」


 陽菜が、真顔に戻って言った。


「なんだ」


「私、ちゃんと存在してる?」


 風が吹いた。


 夕日が、一段と傾いた。


 俺はすぐに答えようとして——止まった。


 「存在してる」と言えば、それは本当のことか?


 陽菜が何者なのか、俺はまだわからない。PlayerIDの意味も、陽菜の記憶の欠落の理由も、なぜちひろを探しているのかも。全部、まだわからない。


 でも。


 目の前に、陽菜がいる。


 一粒の涙の跡が、頬に残っている。


 夕日に照らされた横顔が、答えを待っている。


 これが「存在していない」なら、何が存在していると言えるんだ。


「存在してる」


 俺は言った。


「俺が保証する」


 陽菜は、少しだけ目を細めた。


「……保証って言い方、おじさんっぽい」


「おじさんだからな」


「ちーちゃんの口から出るとウケる」


 それだけ言って、陽菜は笑った。


 今度は、全部本物の笑いだった。


――


 帰り道。


 三人で駅まで歩いた。陽菜がいつも通りに喋っている。「明日の委員会どうしよ」「一ノ瀬くんも来てよね」「え、嫌だ」「なんで!?」。


 俺はその少し後ろを歩きながら、空を見上げた。


 夕日が、完全に沈みかけている。


 陽菜は「存在してる」という俺の言葉を、信じてくれた。


 でも——本当のことを、俺はまだ全部言っていない。


 陽菜がなぜこの世界にいるのか。PlayerIDが何を意味するのか。ちひろとの本当の関係が何なのか。


 それを知ったとき、陽菜は何を思うのか。


 まだわからない。


 でも、今日「存在してる」と言ったことは、後悔していない。


 それだけは確かだった。


 駅の手前で、陽菜が振り返った。


「ねえ、ちーちゃん」


「なに」


「ちひろのこと、絶対見つけてよね」


 それだけ言った。


 命令でも、お願いでもなく。


 当たり前のことを確認するみたいに。


「ああ」


 俺は答えた。


 陽菜は頷いて、また前を向いた。


 三人分の影が、夕暮れの地面に伸びていた。


 今日から、三人になった。


 正式に。

最近、動画の仕事が割と大変で小説が雑になってないか心配…

皆さんに読んでいただくものなのできちんとしたものを精一杯出せるよう頑張ってます。

次回もお楽しみに。

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