3-18「普通の、金曜日」
金曜日の朝。
目が覚めたとき——まず、空を確認した。
白くなっていない。
青い空だった。
雲が、いくつか浮かんでいた。
普通の朝だった。
でも——昨日より、少し違った。
何が違うのかは、うまく言えない。
でも——この朝が、「俺の朝」になった気がした。
借り物の朝じゃなく。
ちひろの身体を借りて、この世界に来て——数ヶ月が経った。
昨日、答えを出した。
今日から——本当の意味で、ここで生きていく。
俺は、ゆっくりと起き上がった。
――
朝食の席。
「お母さん」が、味噌汁を出してくれた。
「おはよう、ちひろ」
「おはよう」
「……今日も、いい顔してる」
「そうか」
「うん。昨日より、もっといい顔」
「昨日も言っていた」
「毎日言う。毎日顔が変わるから」
俺は、味噌汁を一口飲んだ。
いつもと同じ味。
でも——今日は、この味が「俺の味噌汁」に感じた。
ここにいる人間の、朝の味噌汁に。
「……おいしい」
「え? 珍しい。ちひろがおいしいって言った」
「そうか?」
「うん。いつも黙って食べるから」
「……これからは、言うようにする」
「お母さん」は、少し嬉しそうな顔をした。
「そっか。それはいい」
俺は、朝食を食べ終えた。
ごちそうさまでした、と言った。
「お母さん」が「はい」と答えた。
それだけの会話だったが——今日は、それが温かかった。
――
登校すると、陽菜が待っていた。
「おはよ!」
「おはよう」
「……なんか、今日は違う」
「何が違う」
「なんか——落ち着いてる。いつもと違う落ち着き方」
「いつもは落ち着いていないのか」
「なんか、考えてることがいっぱいある感じがしてた。でも今日は——ただいる、って感じ」
俺は、陽菜を見た。
「……よくわかったな」
「顔でわかる!」
「そうか」
「それって、昨日のことが関係してるの?」
「そうだと思う。答えが出た。だから——今日からは、ただいる」
「ただいる」
「根を張り続ける。それだけだ」
陽菜は、少し考えてから「いいじゃん」と言った。
「いいの?」
「うん。ただいる剛さん、なんか好き」
「……そうか」
「なんか、本当にここにいる感じがする」
「本当にここにいる」
「うん。前は——ここにいながら、どこか遠くを見てる感じがしてた。今日は、ちゃんとここにいる」
俺は、陽菜の言葉を受け取った。
遠くを見ていた。
確かに、ずっとそうだった。
ちひろを探すこと。バグを調べること。答えを出すこと。
全部——今じゃない何かに向かっていた。
でも今日は——今、ここにいる。
「……ありがとう」
「なんで?」
「気づかせてくれた」
「どういたしまして! でも私は何もしてないよ」
「してくれていた。ずっと」
陽菜は、少し照れくさそうな顔をした。
「……じゃあ、いっか」
――
昼休み。
四人で、いつもの図書室に集まった。
今日は——特に議題がなかった。
調べることも、計画することも、報告することも、なかった。
ただ、四人で昼食を食べた。
陽菜がパンを食べながら喋っていた。
ちひろが笑っていた。
一ノ瀬が、静かに聞いていた。
俺は、その光景を見ていた。
特別なことは、何もなかった。
でも——これが、今日の全部だった。
「ねえ」
陽菜が言った。
「なに」
「今日、空白化来なかったね」
「ああ」
「記録者が『次の空白化まで七日』って言ってたのに——来なかった」
「世界が安定したのかもしれない」
「第三の出口が開いて、世界が完成したから?」
「そう解釈できる」
「じゃあ——もう大丈夫ってこと?」
俺は少し考えた。
「……大丈夫かどうかは、まだわからない。世界の崩壊が止まったわけじゃないかもしれない。でも——今日は、来なかった」
「今日は、来なかった」
「それで、今日は十分だ」
陽菜が「なるほど」と言った。
「一日一日、ちゃんとここにいる、ってこと?」
「そういうことだと思う」
「それが、根を張るってこと?」
「ああ」
「なんか——シンプルだね」
「シンプルだ」
「でも難しい」
「難しい」
「……でも、できる気がする」
「なぜ」
「四人でいるから」
俺は、陽菜を見た。
陽菜は、パンを食べながら、さらっと言った。
「一人だったら難しいかもしれないけど——四人でいれば、できる。根を張り続けることも、ただここにいることも」
「……そうかもしれない」
ちひろが、頷いた。
「うん。私も、一人だったら怖かった。でも——四人でいるから、大丈夫」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……四人でいる、ということの意味が、少しわかった気がする」
「どんな意味だ」
「……一人では難しいことが、できるようになる。それだけじゃなく——一人では気づかないことに、気づける」
「気づかないことに」
「お前が『ただいる』ようになったことに、陽菜が気づいた。俺は気づかなかった。四人でいるから、そういうことが起きる」
「……そうだな」
「それが——四人でいる、ということかもしれない」
陽菜が「一ノ瀬くんがいいこと言った!」と言った。
「……事実だ」
「事実でもいいことじゃん!」
「……そうだな」
ちひろが笑った。
俺も笑った。
――
放課後。
一ノ瀬と、二人で少し話した。
「今日、バグの記録を始めた」
「俺もだ」
「どうだった」
「……新鮮だった」
「新鮮?」
「これまでは、バグを『この世界の異常』として記録していた。でも今日は——この世界の一部として記録した。同じことをしているのに、見え方が変わった」
「根を張ったからか」
「そう思う。この世界に根を張ったら——この世界のバグが、違って見えた」
「どう違う」
「……きれいに見えた」
一ノ瀬が、少し間を置いた。
「……俺も、同じだった。今日の記録を見直したら、いつもより鮮明だった」
「世界が応えている」
「ああ。根を張った人間に、世界が根を返してくれている」
「ちひろが言っていたことと同じだな。バグだらけの、きれいな世界」
「……そうだ」
俺は、窓の外を見た。
夕暮れの空。
白くなっていない。
ただの、きれいな夕暮れだった。
「一ノ瀬」
「なんだ」
「……ありがとう。一緒に記録してくれて」
「礼はいらない」
「でも言う」
「……どういたしまして」
一ノ瀬は、また素直に言えた。
俺は、それを聞いて——また、小さく笑った。
――
帰り道。
四人で並んで歩いた。
陽菜が喋っていた。ちひろが笑っていた。一ノ瀬が静かに歩いていた。
俺は、その少し後ろを歩きながら——四人の背中を見ていた。
これが、根を張るということだ。
特別なことは、何もない。
でも——四人がここにいる。
それが、この世界の答えだった。
空に、星が一つ出た。
最初の一つが、出た。
今夜も、何万光年も離れた場所から、光が届いていた。
諦めずに。
届け続けながら。
俺は、その星を見ながら歩いた。
普通の、金曜日。
でも——今日から、ここが俺の場所だった。
本当の意味で。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




