3-10「残りたい、という気持ち」
月曜日の朝。
残り三日。
昨夜、夢を見た。
でも今回は——声は聞こえなかった。
光だけがあった。
653のパターンが、ゆっくりと回転していた。
それだけだった。
でも——悪い夢じゃなかった。
落ち着いた夢だった。
まるで——世界が、俺の決断を待っているみたいな。
――
朝食を食べながら、「お母さん」を観察した。
昨日、「迷ってるのに怖がってない顔」と言った人。
この人は——何を知っているのか。
何も知らないのか。
あるいは——何かを感じているのか。
「ちひろ」
「なに」
「なんか、最近よく考え事してるね、って昨日も言ったけど」
「うん」
「……何か、決めないといけないことがあるの?」
俺は、「お母さん」を見た。
「……そうだ」
「大事なこと?」
「大事なことだ」
「そっか」
「お母さん」は、トーストを切りながら言った。
「ちひろが決めたことは、きっと正しいと思う」
「なぜそう思うんだ」
「なんとなく。ちひろは、ちゃんとした子だから」
俺は、その言葉を受け取った。
ちひろはちゃんとした子。
でも今、この身体の中にいるのは四十三歳のエンジニアだ。
それでも——「お母さん」の言葉は、俺に届いた。
「……ありがとう」
「また言う。なんで?」
「……この家で過ごした時間が、よかったから」
「お母さん」は、少し不思議そうな顔をしたあと——静かに微笑んだ。
「……そう。それはよかった」
――
登校すると、陽菜が待っていた。
「おはよ! 顔が昨日と違う!」
「昨日は会っていないが」
「でもなんか違う! なんか決まりかけてる顔!」
俺は、陽菜の観察眼に苦笑した。
「……少し、見えてきた気がする」
「どっちに?」
「……」
「言わなくていいよ。でもなんか、いい感じの顔してるから——きっとそっちでいいと思う」
「そっちとは?」
「私が嬉しい方」
陽菜は、にっこり笑って教室に入っていった。
俺は、その背中を見送りながら——小さく笑った。
――
昼休み。
四人で図書室に集まった。
「報告したいことがある」
俺は言った。
「昨日、一人で考えた。『残る』と『戻る』、それぞれに書き出した」
「どうだった?」
「残るページの方が、ずっと多かった。戻るページには——元の世界の日常が、霞んでいた。名前が出てこない人、顔が思い出せないクライアント、何をしていたかわからない日が多かった」
「そっか」
「そして——残りたいという気持ちが、戻りたいより大きくなっていた」
一瞬の沈黙の後。
「やった!!!」
陽菜が言った。
「声が大きい」
「だって!! やったじゃん!!」
「まだ答えは出ていない」
「でも残りたいが大きくなってるんでしょ! それで十分じゃん!!」
「……十分ではない。まだ確信がない」
「確信なんて後からついてくるよ!!」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……よかった」
「一ノ瀬くんも!」
「……繰り返すな」
「でも!」
「繰り返すな」
ちひろが、俺を見た。
「剛さん——戻るページに、書けなかったことがあるって言ってたよね」
「ああ。元の世界で、俺を必要としている人がいるか、ということだ」
「いた?」
「……わからなかった。思い出せなかった」
「それが答えかもしれない」
「そうかもしれない」
ちひろは、少し考えてから言った。
「でも——一つだけ聞いていい?」
「なんだ」
「剛さんが元の世界で死にかけたとき——誰かが悲しんだと思う?」
俺は、その問いを受け取った。
「……悲しんだ人は、いたと思う」
「その人たちのことは、どう思う?」
「……申し訳ない気持ちがある。でも——戻ったとして、その人たちに会えるかどうかも、わからない。元の世界に戻れるとしても、今の俺の状態で戻れるとは限らない」
「そっか」
「それが——まだ、答えを出しきれていない理由の一つだ」
「うん。わかった」
陽菜が、少し手を挙げた。
「ちょっといい?」
「なんだ」
「さっき、残りたいが大きくなってるって言ったじゃん」
「ああ」
「それって——ここにいたいってこと? それとも、ここじゃないといけないってこと?」
「……違いがあるのか」
「あると思う。いたいは気持ち。じゃないといけないは、理由。どっち?」
俺は、陽菜の問いを受け取った。
「……両方、だと思う」
「両方?」
「ここにいたい。そしてここにいる必要がある気がする」
「どんな必要が?」
「……まだ、やりきっていないことがある気がする。第三の出口のことだけじゃなく——この世界で、俺がやるべきことが、まだある気がする」
「なんだと思う?」
「……わからない。でも、ある」
陽菜は、少し考えてから「わかった」と言った。
「じゃあ、それが見つかったとき——答えが出るかもしれない」
「そうかもしれない」
「残り三日、あるよ」
「ああ」
――
放課後。
四人で帰り道を歩いた。
一ノ瀬が、静かに言った。
「空白化現象——次の発生まで、今日で三日目だ」
「残り時間と、空白化のタイミングが重なっている」
「ああ。次の空白化が来る前に、答えが出れば——第三の出口が開くかもしれない」
「開かなかったら?」
「……その先は、まだわからない」
俺は、空を見上げた。
夕暮れの空。
まだ白くなっていない。
「大丈夫だよ」
陽菜が言った。
「根拠はないけど」
「根拠のない確信か」
「そう! でも、そういうのが一番強いんでしょ?」
「……お前は、ちゃんと覚えているんだな」
「覚えてるよ。剛さんが言ってたから」
俺は、陽菜を見た。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
ちひろが、笑った。
一ノ瀬が、口の端を動かした。
四人で、夕暮れの道を歩いた。
残り三日。
でも——今日、また一歩進んだ。
残りたいという気持ちが、少しずつ、形を持ち始めていた。
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次回もお楽しみに




