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3-9「四十三年分と、数ヶ月分」

日曜日。


 残り三日。


 今日は、一人で考える日にしようと思った。


 四人でいると、答えが出しやすくなる。でも——それは、答えを出しているのか、それとも流されているのか、わからなくなることがある。


 一人で、向き合う必要があった。


 俺は、朝食を済ませてから、部屋に戻った。


 ノートを開いた。


 白いページ。


 「残る」と書いた。


 次のページに、「戻る」と書いた。


 それぞれのページに、思いつくことを書き出していった。


――


 「残る」のページ。


 ちひろ。陽菜。一ノ瀬。


 この世界で起きたこと。振り子のカクつき。653の数列。体育館裏の夜。南公園の扉。核の近傍の設計図。


 「誰かのために動く」という実感。


 四人でいる時間の温かさ。


 この世界がバグだらけだと知りながら、それでもきれいだと思えること。


 書き出しながら、俺は気づいた。


 こっちのページの方が、ずっと多い。


――


 「戻る」のページ。


 元の世界。四十三年分の人生。


 仕事。コード。プロジェクト。クライアント。


 ……何があったか、思い出そうとした。


 名前が出てこない人がいた。


 顔が思い出せないクライアントがいた。


 何年もかけて積み上げたはずの日常が——霞んでいた。


 俺は、ペンを止めた。


 四十三年分の日常が、霞んでいる。


 数ヶ月分のこの世界の記憶が、鮮明だ。


 これは——どういうことなのか。


 時間の長さと、記憶の鮮明さは、比例しない。


 そういうことか。


――


 昼頃、「お母さん」が声をかけてきた。


「ちひろ、ご飯できたよ」


「……うん、今行く」


 テーブルに着いた。


 今日は、炒め物だった。


 「お母さん」が、向かいに座った。


「最近、よく考え事してるね」


「……そうか」


「なんか、大事なこと考えてる顔」


「……大事なことを考えている」


「そっか。ちひろらしくないけど——でも、なんかいい顔してる」


「いい顔?」


「うん。迷ってるのに、怖がってない顔。そういう顔が一番いいと思う」


 俺は、「お母さん」を見た。


 この人は、何も知らない。


 でも——大事なことを言う。


「……ありがとう」


「なんで? お礼言われることした?」


「……してくれていた。ずっと」


 「お母さん」は、少し不思議そうな顔をしたが「そう」と言って、炒め物を取り分けてくれた。


 俺は、それを食べた。


 うまかった。


 この味も、この世界の一部だ。


 ちひろが作った世界の、温かい一部だ。


――


 午後、俺はスマホを見た。


 着信はなかった。


 三人とも、今日は俺に連絡しないでいてくれているらしい。


 気を遣ってくれているのか、自然にそうなっているのか——どちらでもいい。


 ありがたかった。


 俺は、窓の外を見た。


 日曜日の住宅街。静かだ。


 元の世界の日曜日も、こんな感じだったはずだ。


 でも——思い出せない。


 何をして過ごしていたか。誰かと話していたか。何を考えていたか。


 思い出せない。


 でも——この世界の日曜日は、思い出せる。


 陽菜の「お腹空いた」。一ノ瀬の観測ノート。ちひろの笑い方。


 全部、思い出せる。


 これが答えの一部だと、俺は思った。


――


 夜、眠る前に。


 俺はノートを見た。


 「残る」のページ。「戻る」のページ。


 残るページの方が、ずっと多い。


 でも——一つだけ、戻るページに書けていないことがあった。


 元の世界で、俺が果たすべきことがあるか。


 誰かが、俺を必要としているか。


 俺は、考えた。


 ……わからない。


 四十三年間、誰かに必要とされていたか。


 仕事はしていた。役割はあった。


 でも——「お前が必要だ」と言ってくれた人が、いたか。


 …………


 俺は、ノートを閉じた。


 答えが——出かかっている。


 でも、まだ怖い。


 一度決めたら、もう変えられないかもしれない。


 そういう決断が、怖い。


 四十三年生きてきて——こんなに怖い決断は、なかったかもしれない。


 でも。


 迷ってるのに、怖がってない顔。


 「お母さん」の言葉が、耳に残っていた。


 俺は、怖がっているのか、それとも——怖がりながらも、向かっているのか。


 目を閉じた。


 今夜の夢で——また、何かが聞こえるかもしれない。


 でも今夜は、聞くより先に——少しだけ、自分の気持ちを確かめてから眠りたかった。


 残りたい。


 その気持ちが、「戻りたい」より大きくなっていた。


 でも——まだ答えを出していない。


 明日、また考える。


 残り三日。


 きっと、間に合う。

お読みいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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