2-24「声が、届いていた」
放課後、四人で旧校舎の非常階段にいた。
特に理由はなかった。
ちひろが「ここ、一回来てみたかった」と言い、それで四人で来ることになった。
踊り場に、四人で並んだ。
窓から、校庭が見える。夕日が傾いている。
「ここでよく話してたんだよね」
ちひろが言った。
「ああ。一ノ瀬と、よく」
「私も感じてた。なんか、ここだけ空気が違う感じがして。好きな場所だなって思ってた」
「深層から感じられたのか」
「なんとなく。はっきりじゃないけど——温度みたいなものが伝わってきた。ここで誰かが真剣に話してる、って感じが」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……知っていたなら、言えばよかった」
「伝える方法がなかったから」
「声は届いていた」
「あの品質の音声で?」
「聞こえていた」
ちひろは、少し照れたような顔をした。
「……あの声、恥ずかしいんだけど」
「なぜ」
「だってノイズだらけで、ちゃんと喋れてなかったじゃん。あんな声を聞かれてたと思うと」
「内容は聞き取れた。それで十分だった」
「でも、もっとちゃんと話せたら——」
「ちゃんと話せていた。重要なことが、全部届いていた」
俺は、一ノ瀬の言葉を聞きながら、あの夜を思い出した。
図書室。一ノ瀬のノートパソコン。ノイズフィルタリングを五回繰り返した末に浮かび上がった声。
「……き……こえ……る? まだ……ここに……いる」
陽菜が泣きそうになって「よかった」とだけ言った、あの夜。
「ちひろ」
「なに」
「あの声を送ったとき——どんな気持ちだったんだ」
ちひろは、少し考えた。
「怖かった。届くかどうかわからなかったから。深層から表層に信号を送るのは、すごく難しくて——何度も失敗して、やっと一回だけ届いた感じがして」
「やっと、か」
「うん。何十回も試して、一回だけ。だから——届いたかどうか、確信が持てなかった」
「届いていた」
「……知ってる。返信が来たから」
ちひろは、手すりを軽く叩いた。
「返信が来たとき——すごく、ほっとした。誰かがいる。聞こえてる。それだけで、ずっと続けられた」
「ずっと続けられた、とは」
「深層にいることを、続けられた。正直、限界が近くなってたから。でも返信が来て——もう少し待てると思えた」
俺は、その言葉を受け取った。
俺たちの「聞こえてる」という返信が、ちひろを支えていた。
「なぜ、俺たちに届いたんだと思う。音声の形で」
「それは——数列じゃ限界があったから。653のアドレスでメッセージは送れてた。でも、それだけじゃ足りない気がして。もっと直接的に、声で伝えたかった」
「声を選んだのはなぜだ」
「……なんか、声の方が、ちゃんと伝わる気がして」
ちひろは、少しだけ恥ずかしそうに続けた。
「テキストより、声の方が——怖いか怖くないかが伝わると思った。私が怖がっているかどうかを、声で伝えたかった」
「怖がっていたのか」
「怖がってたよ、当然。でも——声に出したら、そこまで怖くなかった気がして」
陽菜が、聞いていた。
「じゃあ、あの声は怖がってた声なの?」
「少し。でも——大丈夫だって声でもあった」
「そっか」
陽菜は、少し目を細めた。
「ちひろらしいね。怖いのと大丈夫が、同時にある声」
ちひろが、陽菜を見た。
「……陽菜、なんかうまいこと言うようになったね」
「前からだよ!」
「そうだっけ」
「そうだよ! ちーちゃんも言ってくれてたじゃん!」
「ちーちゃん?」
「あ——中身のおじさん」
ちひろが俺を見た。
「……ちーちゃんって呼ばれてたんだ」
「仕方がなかった。外見がお前だったから」
「なんか、複雑」
「お前の名前だからな」
「でも、おじさんが『ちーちゃん』って呼ばれてたと思うと」
「思うな」
「思っちゃう」
陽菜が「私はずっと中身おじさんだって薄々思ってたけど、ちひろって呼ぶのやめられなかったんだよね」と言った。
「そうか」
「でも今、本物のちひろがいるから——もう迷わなくていいの、すごく楽」
ちひろが、陽菜の肩に頭をもたせかけた。
「……私も、楽だよ。みんながいて」
陽菜が、ちひろの頭を抱えた。
「また深層とか行かないでよ」
「行かない。絶対行かない」
「約束だよ」
「約束する。もう十分待った」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……俺たちも、十分待った」
ちひろが、一ノ瀬を見た。
「……一ノ瀬くん」
「なんだ」
「ありがとう」
「何度目だ」
「何度でも言う」
「……」
一ノ瀬は、答えなかった。
でも——目を、少し細めた。
それが、一ノ瀬なりの返事だった。
――
帰り道。
四人で歩いていると、陽菜がちひろに聞いた。
「深層で、一番つらかったことって何?」
「……声が届くか届かないか、わからないことかな」
「届いてたよ」
「今はわかる。でもあのとき——返信が来るまで、ずっとわからなかった」
「どのくらい待った?」
「……長かった。でも、時間の感覚が深層では違うから、どのくらいかは言えない」
「そっか」
「でも——待ってよかった」
「なんで?」
「届いたから。ちゃんと、届いたから」
陽菜が「よかった」と言った。
ちひろが「うん」と言った。
俺は、二人の会話を聞きながら、あの夜を思い出した。
図書室。ノイズフィルタリング。五回重ねた末に浮かび上がった、ちひろの声。
「……き……こえ……る? まだ……ここに……いる」
聞こえていた。
ちゃんと、聞こえていた。
そして——俺たちも、届けていた。
「聞こえてる」という返信を。
星が、また出始めていた。
今夜も、何万光年も離れた場所から、光が届いている。
諦めずに。
ずっと、届け続けながら。
それは——ちひろの声みたいだと、俺は思った。
何十回も失敗して、一回だけ届いた声。
その一回が、全部を変えた。
声が、届いていた。
それだけで——十分だった。
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