2-23「バグだらけの、きれいな世界」
ちひろが戻ってから、一週間が経った。
四人の日常が、少しずつ定着してきた。
登校。授業。昼休み。放課後。
全部に、ちひろがいる。
それが——当たり前になってきた。
でも、時々思う。
「当たり前」というのは、いつの間にかそうなるものだ。
一人でいた一ノ瀬が、三人になり、四人になった。
その変化が「当たり前」になるまでに、どれだけのことがあったか。
俺は、それを忘れないようにしようと思った。
――
昼休み、図書室。
四人でいると、図書室がいつもより賑やかになる。
陽菜が喋る。ちひろが応える。一ノ瀬が時々一言入れる。
そこに俺が混ざっている。
一ノ瀬が、観測ノートを取り出した。
調査や作戦のためではなく——最近は、習慣として続けている記録だ。
ちひろが、そのノートを見た。
「……几帳面すぎる」
「何がだ」
「このノート。字が整いすぎてる。日付も時刻も全部揃ってる」
「記録は正確であるべきだ」
「わかるけど——なんか、こわいくらい綺麗」
「こわい?」
「綺麗すぎて、こわいって意味」
一ノ瀬が、ノートを見た。
「……普通だと思うが」
「普通じゃないよ! 私のノートと比べてみて」
ちひろが自分のノートを開いた。
丸みのある文字。時々傾いている行。余白に小さなメモ。
「こっちが普通でしょ」
「……それは、普通とは言いにくい」
「どういう意味!?」
陽菜が「ちひろのノート確かに独特だよね」と言った。
「独特じゃない! 普通!」
「でも数字が全部大きくて、文字より数字の方が目立つじゃん」
「数字の方が大事だから!」
俺は、ちひろのノートを横から見た。
確かに——数字だけが、他の文字より大きく書かれていた。
「振り子のデータを取っていたときも、数字を大きく書いていたのか」
「そうだよ。数字が小さいと読み間違えそうで」
「それで、カクつきを正確に記録できていたのか」
「……うん。数字だけは絶対に間違えたくなかったから」
ちひろは、自分のノートを見た。
「このノートに、最初のカクつきのデータが残ってる」
「見ていいか」
「うん」
俺は、ノートを受け取った。
去年の秋のページ。
ちひろの丸文字で書かれた数字の羅列。そして余白に、一言。
「怖かった。でも、きれいだと思った」
俺は、その文字を見た。
「……これだったのか」
「うん。最初に書いた感想」
「第9話で——お前のノートにこれを見つけて、ちひろがどんな人間かを少し理解した気がした」
「第9話?」
「……俺の中の出来事の数え方だ。気にするな」
ちひろは、少し笑った。
「そっか。おじさん、ちゃんと私のこと理解しようとしてくれてたんだね」
「当然だ。お前の身体を借りていたんだから」
「……ありがとう」
「また礼を言う」
「何度でも言う」
――
放課後、ちひろが言い出した。
「ねえ、一つ聞いていい? みんなに」
「なんだ」
「今も、世界のバグって見える? 解像度の低いところとか、カクつきとか」
俺は少し考えた。
「見えている。ちひろが戻ってから、頻度は下がった気がするが——まだある」
「私もまだわかる」
陽菜が言った。
「なんとなく、ここは薄いなって感じる場所は、まだある」
「一ノ瀬は」
「……ある。変わっていない」
ちひろは頷いた。
「そうだと思った。マスタープロセスが言ってたこと——この世界の役割が終わったって。でも、世界は消えてない」
「消えていない」
「だから、バグも消えていない。世界はまだ存在してる。ただ——」
ちひろは、窓の外を見た。
「役割を終えた後の世界が、どうなるか。私にもわからない」
「怖いか」
「……少し。でも」
ちひろは、俺を見た。
「怖かった、でもきれいだと思った——最初にそれを書いたとき、私は一人だった。でも今は四人だから」
「四人だから?」
「四人で見れば、バグもきれいに見えるかもしれない」
陽菜が「それいい!」と言った。
「バグだらけだけど、きれいな世界」
「そういうことだ」
「なんか、私たちの関係みたいだね」
「どういう意味だ」
「バグだらけ——みんなそれぞれ変なところあるじゃん。でも、なんかきれいじゃん、この四人」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……的を射ている」
「えっ一ノ瀬くんが褒めた!!」
「褒めていない。事実だ」
「事実でも褒めてるのと同じじゃん!!」
ちひろが笑った。
俺も笑った。
一ノ瀬は相変わらず無表情だったが、口の端がわずかに動いた。
――
帰り道。
四人で並んで歩いた。
ちひろが、空を見上げながら言った。
「ねえ、星って、なんで光るんだっけ」
「核融合反応だ。水素がヘリウムに変換される際に、エネルギーが放出される」
「それが光になって届くんだよね」
「光速ぎりぎりで、何万年もかけて」
「……すごいな」
「何がすごいんだ」
「届くのに何万年もかかるのに、ちゃんと届く。諦めないじゃん、星って」
陽菜が「ちひろ詩人みたいなこと言う」と言った。
「ちょっと恥ずかしかった?」
「全然! いいこと言ったと思う!」
「ありがとう」
俺は、空を見上げた。
星が、出始めていた。
何万光年も離れた場所から、光速ぎりぎりで届いている光。
この世界はシミュレーションかもしれない。
でも——この光は、確かに届いている。
ちひろが作った世界で。
四人が見上げている空で。
「ちひろ」
「なに」
「お前がこの世界を作ってよかった」
ちひろは、少しだけ驚いたような顔をした。
「……そう思う?」
「ああ」
「なんで?」
「この世界がなければ、俺はお前たちに会えなかった。陽菜に。一ノ瀬に。お前に」
ちひろは、俺を見た。
その目が、また少し潤んだ。
「……泣くなよ」
「泣いてない」
「目が潤んでいる」
「空気が乾燥してるの!」
陽菜が「ちひろ泣いてる!」と言った。
「泣いてないって!」
「でも目が赤い!」
「乾燥!!」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……泣いていい」
ちひろは、一ノ瀬を見た。
「……一ノ瀬くん」
「人前で泣くことは、恥ずかしくない」
「……うん」
ちひろは、結局泣かなかった。
でも——笑った。
夕暮れの道に、四人の笑い声が響いた。
バグだらけの、きれいな世界。
その中を、四人で歩いた。
星が、少しずつ増えていった。
何万光年も離れた場所から、諦めずに届く光が。
今夜も、四人の頭上に降り注いでいた。
お読みいただきありがとうございます
次回もお楽しみに




