2-22「戻りたいかと、彼女は聞いた」
ちひろが戻ってから、数日が経った。
学校の日常が、四人になった。
それだけのことなのに——何かが、根本的に変わった気がした。
廊下を四人で歩く。教室で四人で話す。給食を四人で食べる。
三人でやってきたことの全部に、ちひろが加わった。
当たり前のように。
まるで、最初からそこにいたように。
――
給食の時間。
ちひろが、スプーンを止めた。
「……おいしい」
「何がだ」
「シチュー。あ、パンも。あと、サラダも」
「給食は毎日食べているだろ」
「久しぶりなんだよ! 深層にいたとき、食べ物の感覚はなかったから」
「そうか」
「食べ物ってこんなにおいしかったんだ」
ちひろが、目を輝かせてシチューを食べていた。
陽菜が「ちひろが給食に感動してる」と言った。
「感動するよ! あと、空気の匂いも。外の空気って、こんな感じだったんだ」
「外の空気に感動してるの?」
「してる。深層って、匂いがなかったから」
「そっか……」
陽菜が、少しだけ複雑な顔をした。
「ちひろ、大変だったんだね」
「大変だったけど——でも、よかったと思ってる。ちゃんと戻れたから」
ちひろは、パンをちぎりながら言った。
一ノ瀬が、静かにパスタを食べていた。
ちひろが一ノ瀬を見た。
「一ノ瀬くんって、給食いつもパスタ選ぶね」
「好きだから」
「私も好き。今日は選べなかったけど」
「次はある」
「うん」
ちひろが、笑った。
こういう会話が——四人の間で、当たり前になっていた。
――
放課後。
ちひろが俺を呼び止めた。
「ちょっといい?」
「なんだ」
「二人で話せる?」
俺は頷いた。
二人で、旧校舎の非常階段に向かった。
いつもの踊り場。夕暮れの光が、差し込んでいる。
ちひろが、手すりに手をかけた。
「ここ、よく来てたんだよね。私が入ってる間」
「ああ。一ノ瀬とここで話すことが多かった」
「知ってた。なんとなく、ここの空気が好きだった理由がわかる気がする」
ちひろは、外を見た。
「剛さん」
名前を呼ばれた。
ちひろが俺を「剛さん」と呼んだのは、初めてだった。
「なんだ」
「聞いていいか」
「ああ」
「……戻りたい?」
静寂が落ちた。
俺は、その問いを受け取った。
元の世界に戻りたいか。
四十三歳のエンジニアとして生きていた、あの世界に。
俺は、すぐには答えなかった。
「お前は、どう思う」
「私が聞いてる」
「……わかった」
俺は、手すりを見た。
ちひろが指摘したコリジョン欠落の場所。一ノ瀬が教えてくれた場所。
「正直に言う」
「うん」
「最初は——戻りたかった。当然だ。自分の世界に、自分の身体に、自分の人生に戻りたかった」
「今は?」
「……今も、戻りたいという気持ちはある」
「そうだよね」
「でも——それだけじゃない」
俺は、踊り場から見える景色を見た。
校庭。木。遠くのビル。
この世界の「普通の景色」が、夕日の中にあった。
「この世界で、いろんなものを見た。お前が作ったものを。陽菜の笑い方を。一ノ瀬の背中を。振り子のカクつきを。653の数列を。体育館裏の夜を」
「うん」
「全部——本物だった。お前が作ったものだとわかっていても、全部、本物だった」
ちひろは、黙って聞いていた。
「だから——戻りたいという気持ちと、ここに残りたいという気持ちが、両方ある。今は」
「……そっか」
「答えになっていないかもしれないが——それが正直なところだ」
「なってる」
ちひろが言った。
「答えになってる。ちゃんと」
「お前は——俺に、どうしてほしいんだ」
ちひろは、少し考えた。
「……正直に言うと、剛さんがここにいてくれると嬉しい。でも——それは私の気持ちだから。剛さんが決めることだと思ってる」
「そうか」
「でも、一つだけ言っていい?」
「なんだ」
「この世界は——あなたを必要としていた。#001として。でも、それは過去のことだ。これからどうするかは、あなたが決めていい」
俺は、ちひろを見た。
「お前が作った世界が、俺を必要としていた、か」
「うん。だから呼んだ。でも——呼んだ責任もあると思ってる。あなたの人生を、勝手に変えてしまったから」
「俺は怒っていない」
「わかってる。でも——言っておきたかった」
風が吹いた。
踊り場に、秋の空気が流れた。
「ちひろ」
「なに」
「答えは、まだ出ていない。でも——今すぐ答えを出す必要もない、と思っている」
「うん」
「今は——四人でいる時間を、大切にしたい」
ちひろは、俺を見た。
その目が、少し緩んだ。
「……そうだね」
「南公園でのお花見、楽しみにしている」
「え、覚えてたの?」
「覚えている。来年の春だろ」
「うん! 絶対やろうね! おにぎり作るから」
「梅と鮭の取り合いになるな」
「また取り合いになるの!」
ちひろが笑った。
俺も、少し笑った。
二人で、踊り場に並んで立っていた。
夕日が、校舎の屋上を赤く染めていた。
答えは、まだない。
でも——急がなくていい。
今は、ここにいる。
この世界で、四人で。
それで——十分だ。
――
帰り道。
四人で並んで歩いた。
陽菜が「今日のちひろとちーちゃん、二人で何話してたの?」と聞いた。
「秘密だ」
「えー! 教えてよ!」
「教えない」
「ちひろは?」
「秘密」
「二人とも秘密って言う! なんか、仲良くなってない!?」
一ノ瀬が、静かに言った。
「……仲良くなっているだろう」
「それはそうだけど! でも気になるじゃん!」
ちひろが、陽菜の腕を取った。
「今度、南公園でお花見しようよ。春に」
「え! やる!!」
「おにぎり作る」
「梅と鮭にして!」
「するする」
「一ノ瀬くんも来てね!」
「……考える」
「来てください」
「……わかった」
陽菜が「やった!」と叫んだ。
夕暮れの住宅街に、四人の声が響いた。
俺は、その声を聞きながら歩いた。
答えは、まだない。
でも——今夜も、この時間がある。
それだけで、今日は十分だった。




