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2-20「ちひろが戻った」

表層に戻ったとき、秋の空が広がっていた。


 南公園。廃工場跡地のフェンス前。


 陽菜が、俺の腕を掴んでいた。


「戻った!」


「ああ」


「ちひろは!?」


 俺は、陽菜を見た。


「出口を通った。表層に戻っているはずだ」


「どこに!?」


「……ちひろの身体がある場所に」


 一ノ瀬が、スマホを取り出した。


「ちひろの座標を追う。身体の位置は——」


 一ノ瀬の手が、止まった。


「……どうした」


「座標が、動いている」


「動いている?」


「ちひろの意識座標が——表層の、特定の場所に向かっている」


 俺は、一ノ瀬のスマホを覗き込んだ。


 数値が流れている。座標が、少しずつ変化している。


「どこだ」


「……学校だ」


 三人で、顔を見合わせた。


 学校。


 ちひろの身体が、学校にある。


「走るぞ」


――


 学校に着いたのは、三十分後だった。


 土曜日の午後。校舎は静かだ。でも——生徒がいないわけじゃない。部活をしている声が、どこかから聞こえる。


 一ノ瀬が、座標を追い続けていた。


「……教室だ。二年の、俺たちのクラスの」


 三人で、廊下を走った。


 階段を上る。


 教室のドアの前に立った。


 俺は、ドアを開けた。


 教室は、がらんとしていた。


 窓際の席に——誰かが座っていた。


 黒髪。ショート。色白。


 窓の外を見ていた。


「……ちひろ」


 陽菜が、小さく呼んだ。


 その人が、振り返った。


 大きな目。少し赤い目。


 その目が——俺の顔を見て、わずかに揺れた。


 それから、陽菜を見た。


 一ノ瀬を見た。


 また、俺を見た。


「……誰が、入ってたの?」


 声が、聞こえた。


 音声データで聞いた声。深層で聞いた声。


 でも——今は、空気を振動させて届いてくる、本物の声だ。


「佐藤剛。四十三歳。エンジニアだ」


「……おじさん」


「そうだ」


「……ずっと、感じてた。誰かがいるって」


「気づいてたのか」


「なんとなく。でも——誰かわからなかった。声は聞こえなかったし」


「そうか」


 ちひろは、教室を見渡した。


「……久しぶりだな。この教室」


「どのくらいぶりだ」


「体感では——長かった気がする。でも、実際はどのくらい経ったの?」


「数ヶ月だ」


「そっか」


 ちひろは、また窓の外を見た。


 秋の空。


「……変わってないな。この景色」


「当たり前だ。お前が作ったんだから」


「そっか」


 ちひろは、少しだけ笑った。


 そのとき。


 陽菜が、走ってちひろに抱きついた。


「ちひろーーー!!!」


「わっ」


「どこ行ってたの!! 心配したじゃん!! ずっと探してたんだよ!!」


「ごめん、ごめんって」


「ごめんじゃない!! もっと大きいごめんを言いなさい!!」


「大きいごめん……?」


「ごめんなさい!!!って!!」


「ごめんなさい!!!」


 ちひろが、陽菜に抱きつかれたまま、笑い出した。


 声を出して、笑った。


 陽菜も笑った。


 泣きながら笑った。


 二人が、しばらく抱き合っていた。


 俺は、その光景を見ていた。


 一ノ瀬も、見ていた。


 一ノ瀬の目が——少し、遠かった。


「一ノ瀬」


 俺は、低い声で言った。


「……なんだ」


「行けよ」


「……」


「お前も、ちひろに言いたいことがあるだろ」


 一ノ瀬は、少しの間、動かなかった。


 それから——一歩、前に進んだ。


 陽菜が、ちひろから離れた。


 一ノ瀬が、ちひろの前に立った。


 ちひろが、一ノ瀬を見上げた。


「……一ノ瀬くん」


「……ああ」


「謝らないといけないな、私」


「謝らなくていい」


「でも——」


「謝らなくていい」


 一ノ瀬が、もう一度言った。


「お前は、正しいことをした。俺にはそれを止める権利がなかった」


「……」


「ただ——」


 一ノ瀬が、少し間を置いた。


「もう一度、消えるな」


 ちひろは、一ノ瀬を見た。


 その目が、また潤んだ。


「……消えない」


「約束だ」


「……うん。約束する」


 一ノ瀬は、頷いた。


 それだけだった。


 それだけだったが——それで十分だった。


 陽菜が、二人を見ながら「なんか、映画みたい」と小声で言った。


 俺は「映画じゃない」と返した。


「でもそれっぽいじゃん」


「……まあ、そうかもしれない」


 ちひろが、俺を見た。


「ねえ、おじさん」


「だから四十三歳に——」


「私の身体、ちゃんと使えてた?」


「……問題なかった」


「よかった。なんか、ちゃんと機能してるかな、って心配してた」


「十七歳の身体は、四十三歳のエンジニアには少し小さかったが——機能はしていた」


「小さかった?」


「胃袋が、な」


 ちひろが、また笑った。


「おじさんっぽい」


「そうだ」


 陽菜が「ちーちゃんって言い続けてたけど、中身おじさんだったんだよ」とちひろに言った。


「知ってた。なんとなく」


「え、気づいてたの!?」


「なんとなく、ね。でも確信はなかった」


「どこで気づいたの?」


「……振り子の実験のとき、データの取り方がすごく丁寧だったから」


 俺は、その言葉を聞いて——少しだけ、温かくなった。


 ちひろが最初に気づいた世界のカクつき。その振り子実験を、俺がなぞったとき——ちひろは、俺に気づいていた。


「最後に一つ、伝言がある」


「なに?」


「マスタープロセスからだ。向こうで伝えたが——改めて言う」


「うん」


「よく頑張ったな、と」


 ちひろは、しばらく天井を見上げていた。


「……ありがとうって、言っといてね」


「もう向こうには行けないが——聞こえているかもしれない」


「聞こえてると思う」


 ちひろは、窓の外に向かって、小さく頷いた。


 秋の空。晴れた空。


 ちひろが作った世界の、晴れた空が続いていた。


「さてと」


 ちひろが、立ち上がった。


「お腹空いた」


 陽菜が「え?」という顔をした。


「ずっと深層にいたから、何も食べてなくて」


「え、深層って食事とか必要なの?」


「なんか、感覚的にお腹空く感じがしてたんだよね」


「今すぐコンビニ行こう!」


「うん!」


 陽菜がちひろの手を引いて、教室を出ていった。


 俺と一ノ瀬が、残された。


「……終わったな」


 一ノ瀬が、静かに言った。


「ああ」


「ちひろが、戻った」


「ああ」


 一ノ瀬は、窓の外を見た。


「……ありがとう」


「礼を言う必要はない」


「いや——言う」


 一ノ瀬が、俺を見た。


「お前がいなければ、ちひろは戻れなかった。俺では、届かなかった」


「俺はちひろに呼ばれただけだ」


「それでも——来てくれた」


 俺は、一ノ瀬の言葉を受け取った。


「……俺こそ、ありがとう。お前がいなければ、俺はこの世界で何もできなかった」


 一ノ瀬は、前を向いた。


「行くか」


「ああ」


「コンビニ、陽菜が全部決めそうだ」


「止められないだろうな」


「……そうだな」


 二人で、廊下に出た。


 遠くから、陽菜の声が聞こえた。


「ちひろ、何食べたい!? 私おにぎり! 梅と鮭!」


「え、また取り合うの?」


「取り合う!!」


 ちひろの笑い声が、廊下に響いた。


 俺は、その声を聞きながら思った。


 終わった。


 でも——これは終わりじゃない。


 始まりだ。


 ちひろが戻って、本当の「日常」が始まる。


 四人で。


 この世界で。


 まだ、続く。

お読みいただきありがとうございます

次回もお楽しみに

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