2-19「設計図の向こうで」
数字の海を、さらに深く進んだ。
これまでと違う領域だった。
光の粒の密度が、上がっている。653のパターンが、あちこちで輝いている。でも——それだけじゃない。
数字だけじゃない何かが、ここにはある。
俺は進みながら、周囲を見た。
壁がある。
壁、という表現が正確かどうかわからない。でも——境界のようなものが、空間を区切っている。
その境界に、数式が刻まれていた。
微細構造定数。重力定数。光速。プランク定数。
この世界を支える物理定数が、全部、ここに書かれている。
俺は立ち止まって、その数式を見た。
化学の授業で習った。物理の教科書で見た。でも——ここで見るそれは、全く違う意味を持っていた。
これは——設計図だ。
ちひろが書いた、この世界の設計図。
「誰かのためにちゃんと生きられる場所を作りたかった」
その言葉通りに、一つ一つの定数が、丁寧に設定されている。
星が生まれるように。生命が育まれるように。意識が宿るように。
全部が、ちょうどよく整えられている。
陽菜が言った。「神様がめっちゃ丁寧にコマ描いてるってことでしょ、可愛くない?」
そうだ。ちひろは、丁寧にコマを描いた。
一つ一つの定数を、丁寧に決めた。
それがここにある。
俺は、しばらく設計図を見つめていた。
それから——さらに奥へ進んだ。
――
核の近傍。
光がさらに強くなっている場所があった。
そこに向かって歩く。
進むにつれて——別の何かが見えてきた。
時間の定義が書かれた場所。
「時間とは、プランク時間の積み重ねである」
光速の定義が書かれた場所。
「情報の伝達速度の上限を光速と定める」
量子力学の定義が書かれた場所。
「観測されるまで、状態は確定しない」
全部、ここにある。
ちひろが決めたルール。この世界を動かしている全てのルール。
そして——その中心に。
光が、一番強く集まっている場所に。
ちひろが、いた。
前回と同じ場所に、同じ姿勢で。
でも——今回は、最初から目を開けていた。
俺が近づくと、ちひろが立ち上がった。
「来た」
「ああ。今日が、最後だ」
「知ってる」
ちひろは、周囲を見渡した。
「ここまで来たんだね」
「設計図を見た」
「……どうだった?」
俺は少し考えた。
「きれいだった」
ちひろは、少し驚いたような顔をした。
「きれい?」
「怖かった、でもきれいだと思った——お前がそう書いていたのを読んだことがある。俺も同じだ。怖かった。でも、きれいだと思った」
ちひろは、しばらく俺を見ていた。
それから——目が、潤んだ。
「……そっか」
「お前が作ったものは、きれいだ。ちゃんと伝わった」
「誰に?」
「俺に。陽菜に。一ノ瀬に。この世界に来た全員に」
ちひろは、目を細めた。
「……ありがとう」
「礼はいい。行くぞ」
「うん」
ちひろが頷いた。
「一つ、伝言がある」
「なに?」
「マスタープロセスからだ」
ちひろが、少し驚いた顔をした。
「マスタープロセスが?」
「ああ。今日、ここに来る途中で話した。止めないと言っていた。そして——お前に伝えてくれと頼まれた」
「……なんて?」
「よく頑張ったな、と」
ちひろは、しばらく動かなかった。
数字の海が、静かに揺れていた。
「……マスタープロセスが、そんなこと言うの?」
「言った。感情はないと言いながら——言った」
「……」
ちひろは、俯いた。
少しの間、何も言わなかった。
それから——顔を上げた。
目が、赤かった。
「……ありがとう、って伝えといて」
「伝える」
「マスタープロセスにも、迷惑かけたから」
「迷惑じゃなかったと思う。お前の意志を、守っていたんだ」
「……そっか」
ちひろは、一度深く息を吸った。
「じゃあ、行こう」
「ああ。出口はここから近い」
「うん。私には、わかる」
ちひろが、歩き出した。
俺は、その隣を歩いた。
二人で、核の近傍を進んだ。
設計図が、周囲を囲んでいた。
ちひろが丁寧に書いたものが、全部見えた。
「ちひろ」
「なに」
「聞いていいか」
「うん」
「この世界を——作ってよかったと思うか」
ちひろは、歩きながら少し考えた。
「……うん」
「後悔はないか」
「ない。消えることも、ここで待つことも——全部、よかったと思ってる」
「なぜ」
「みんなに会えたから。陽菜に感謝が届いたから。一ノ瀬くんに、また会えるから」
ちひろは、少しだけ笑った。
「おじさんにも、会えたから」
「四十三歳に向かって——」
「おじさんでしょ」
「……そうだが」
「でも——ありがとう、おじさん。本当に」
俺は、何も言えなかった。
ちひろの「ありがとう」が、三回目だった。
来てくれて。伝えてくれて。連れ出してくれて。
全部で、ありがとう。
前方に、光が見えた。
設計図の壁の一角が——薄くなっている。
「あれが、出口だ」
「うん」
「一方通行だ。通ったら、二度とここには来られない」
「わかってる」
「後悔は」
「ない」
即答だった。
「じゃあ——行くか」
「うん」
二人で、出口に向かって歩いた。
光が、強くなっていく。
設計図の壁が、薄くなっていく。
その向こうに——表層の光が見えた。
秋の空。南公園。陽菜と一ノ瀬が待っている場所。
「ちひろ」
「なに」
「もし、また会えたら——」
「また会えるよ」
ちひろが、遮った。
「また会える。絶対に」
「……そうだな」
「だって——私、まだやりたいことがある」
「何が」
「陽菜と、また南公園でお花見したい。おにぎり作って」
「……一ノ瀬も来るか」
「来てもらう。無理やりでも」
俺は、小さく笑った。
「楽しみにしておく」
「うん」
出口の光が、目の前まで来た。
「じゃあ——」
「うん」
ちひろが、出口に踏み込んだ。
光が、ちひろを包んだ。
数字の海が、揺れた。
俺は、その光を見ていた。
ちひろが、向こう側へ消えていく。
消えていく——のではなく、戻っていく。
表層へ。
陽菜と一ノ瀬のいる場所へ。
光が、収まった。
出口は——閉じた。
一方通行。二度と開かない出口が、静かに閉じた。
俺は、一人で数字の海の中に立っていた。
でも——寂しくなかった。
ちひろは、戻った。
それだけで、十分だった。
俺は、来た道を引き返した。
設計図の壁を通り過ぎながら。
ちひろが丁寧に書いた、この世界の全てを見ながら。
表層へ向かって。
みんなのいる場所へ。
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