2-18「マスタープロセスは、言葉を持っていた」
土曜日の朝。
目が覚めた瞬間、今日のことを思った。
先週と同じだった。
でも——今日は違う。先週は「ちひろに会いに行く日」だった。今日は「ちひろを連れ出す日」だ。
窓の外を見た。
晴れていた。
また、陽菜の言った通りだった。
俺は準備を整えた。スマホ。コード。一ノ瀬から届いた経路の地図。
全部、確認した。
「お母さん」が朝食を作っていた。今日はトーストとスクランブルエッグだった。
「ちひろ、今日も出かけるの?」
「うん」
「最近、よく出かけるわね」
「友達と、やることがあって」
「そう」
「お母さん」は、それ以上聞かなかった。
トーストを食べながら、俺は「お母さん」を見た。
この人は、今日の後、どうなるんだろう。
ちひろが戻れば——この世界は、どう変わるんだろう。
答えは、まだない。
でも今日——何かが変わる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
俺は玄関を出た。
――
南公園。
三人が、廃工場跡地のフェンス前に集まった。
今日は——先週と、空気が違った。
三人とも、無言だった。
「始める前に確認する」
俺は言った。
「一ノ瀬、経路は」
「完成している。深層から核の近傍まで、最短経路を特定した」
「エージェントの出現タイミングは」
「今から三十分間は、このエリアに出現しない。ただし——マスタープロセスが動いた場合、その限りではない」
「わかった。陽菜、準備は」
「できてる」
「ループ観測の手順は」
「感情を込めて、ちひろのことを思い浮かべ続ける。タイミングは——ちーちゃんのコードに合わせる」
「そうだ。コードが信号を出すたびに、お前も意識を向ける。ランダムに見えるタイミングだが——コードが振動したら、それが合図だ」
「わかった」
「一ノ瀬は、俺が深層に入った後、陽菜と一緒にループ観測を維持してくれ。マスタープロセスが動き始めたら、観測の強度を上げる」
「ああ」
「質問は」
「ない」
「……ない」
三人で頷いた。
俺はコードを起動した。
PlayerIDを順序通りに組み込む。
「二人は——ちひろのことを思い浮かべてくれ」
「うん」「……ああ」
壁が、揺れた。
扉が、開いた。
「行ってくる」
「うん」「……気をつけろ」
俺は踏み込んだ。
――
数字の海。
今回は、いつもより深く進もうとした。
ちひろのいる場所を通り越して——核の近傍へ。
でも。
数字の海の中を進みながら、俺は気づいた。
何かが、違う。
いつもより——重い。
空気ではない。空気という概念がないこの場所で、何かが「重く」なっている。
俺は立ち止まった。
周囲を見渡した。
光の粒が、揺れている。
いつもは穏やかに漂っているはずの数字の海が——今日は、わずかに乱れている。
「……知っていたか」
声が、聞こえた。
記録者でも、ちひろでもない。
もっと低く、もっと深い声だった。
どこから来ているかわからない。でも——確かに、ここにある。
「マスタープロセス」
俺は言った。
「……そうだ」
声が、答えた。
俺は息を止めた。
エージェントは言葉を持たない。記録者は答える。でも——マスタープロセスが直接言葉を発したのは、初めてだ。
「お前が言葉を持っているとは思わなかった」
「必要がなかっただけだ。削除対象に、言葉をかける理由はない」
「では、なぜ今」
「……お前は、削除対象ではなくなった」
俺は、その言葉の意味を受け取った。
「どういう意味だ」
「お前は、この世界に必要な存在になった。#001として、ちひろの意志を実行する者として」
「ちひろの意志を、お前は知っているのか」
「知っている。記録者ほどではないが——この世界で起きることは、把握している」
俺は、マスタープロセスと対話している状況を、頭の中で整理した。
マスタープロセスは——最初から、俺たちを「排除する対象」として見ていた。
でも今、「削除対象ではなくなった」と言っている。
何かが、変わった。
「お前はなぜ、ちひろの記録者を妨害しなかった」
「記録者は、この世界の根幹に関わる存在だ。削除できない」
「陽菜の記憶を消したのは、お前か」
「……そうだ」
「なぜ」
「ちひろのアクセスキーが陽菜に渡れば——この世界のシステムが不安定になる可能性があった。システムの保護が、俺の役割だ」
「では——ちひろを深層に閉じ込めているのも、システムの保護のためか」
長い沈黙があった。
「……違う」
予想外の答えだった。
「違う?」
「俺は、ちひろを閉じ込めていない。ちひろは自分の意志で深層に移行した。俺はそれを——止めなかった」
「なぜ止めなかった」
「……ちひろの意志だったからだ」
俺は、マスタープロセスの声の奥にある何かを、感じ取ろうとした。
これは——システムの管理者としての言葉じゃない。
「お前は、ちひろのことを——」
「俺の役割を、はき違えないでくれ」
マスタープロセスが、遮った。
「俺はシステムの保護者だ。感情はない。でも——ちひろが作ったこの世界を、守ることが俺の存在意義だ」
「ちひろを守ることも、含まれるのか」
また、沈黙があった。
「……今日、お前はここを通る。核の近傍の出口を使う。それは——止めない」
「なぜだ」
「ちひろの意志だからだ。そして——」
マスタープロセスの声が、わずかに変わった。
「それが、この世界の正しい終わり方だから」
俺は、その言葉を受け取った。
「正しい終わり方」
「ちひろは、誰かに届けるためにこの世界を作った。届いた。それが完了したなら——この世界の役割は、終わる」
「お前は——この世界が終わることを、受け入れているのか」
「……俺は保護者だ。ちひろの意志を守ることが、役割だ。ちひろの意志がこの世界を終わらせることなら——それを守る」
静寂。
数字の海が、静かに揺れていた。
「通っていい。ただし——」
「なんだ」
「一つだけ、伝えることがある」
「なんだ」
「ちひろに、伝えてくれ」
マスタープロセスが、言葉を切った。
「……よく、頑張ったな、と」
声が、消えた。
数字の海が、また穏やかになった。
俺は、しばらく動けなかった。
マスタープロセスが——ちひろに、言葉を伝えるよう頼んだ。
システムの保護者が。
感情はないと言いながら。
「よく頑張ったな」と。
俺は、深く息を吸った。
そして——前を向いた。
核の近傍へ。
ちひろのところへ。
行こう。
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