2-17「前日の夜」
金曜日。
今週末の土曜日が、決行日だ。
あと一日。
学校での授業は、いつも通り進んでいた。化学。英語。数学。
でも俺の頭の中は、明日のことだけだった。
ループ処理のアルゴリズム。核への経路。一方通行の出口。ちひろの意識座標。
全部が、頭の中を回り続けていた。
昼休み。
陽菜が隣に来た。
「ねえ、ちーちゃん」
「なに」
「明日のこと、考えすぎてない?」
「考えている。でも考えすぎではない」
「顔に出てるよ」
「……そうか」
「うん。なんかずっと、計算してる顔してる」
陽菜は、カバンの中をごそごそと探った。
「はい」
チョコレートだった。
「昨日コンビニで買った。食べると頭が働くよ」
「ありがとう」
俺はチョコレートを受け取った。
「陽菜は大丈夫か」
「大丈夫」
「怖くないか」
「怖い。でも大丈夫」
陽菜は、あっさりと答えた。
「怖いと大丈夫は、同時に存在できるの。両方本当だよ」
俺は、その言葉を受け取った。
怖いと大丈夫が、同時に存在できる。
四十三年の人生で、こういう言葉の使い方をする人間に会ったことがなかった。
「……陽菜は、賢いな」
「知ってる!」
陽菜が、胸を張った。
「ずっと知ってた。ようやく気づいてくれた」
「今まで気づいていなかったわけじゃない」
「でも言わなかったじゃん」
「……そうだな」
「もっと言ってくれていいよ。私、褒められると伸びるタイプだから」
俺は、小さく笑った。
四十三歳のおじさんが、女子高生の言葉で笑っている。
この世界に来てから、何度も思ったことだが——慣れない。
でも——悪くない。
――
放課後。
一ノ瀬が、俺を呼び止めた。
「明日、最終確認をしたい。今夜、データを送る」
「わかった」
「……一つだけ聞いていいか」
「なんだ」
「ちひろと最後に話したとき——何か、言伝を預かっているか」
俺は、一ノ瀬を見た。
「ない。でも——元気だと言っていた。お前のことを感じていると」
「……それだけか」
「ちひろは——一ノ瀬に謝りたいと言っていた。消える前に説明しなかったことを」
一ノ瀬は、しばらく黙った。
「……謝らなくていい、と伝えてくれるか」
「明日、直接言えるかもしれない」
「……そうだな」
一ノ瀬は、前を向いた。
「……明日、よろしく頼む」
「ああ。お前こそ」
それだけだった。
でも——それだけで、十分だった。
――
夜。
「お母さん」が、夕食を作っていた。
今日はシチューだった。
俺はテーブルに着いて、「お母さん」の横顔を見た。
明日、ちひろを連れ出せれば——この世界は変わる。
ちひろが戻れば、俺は——どうなるのか。
考えていなかった、と言えば嘘になる。
でも、答えはまだ出ていない。
「ちひろ、最近、なんか落ち着いてきたわね」
「お母さん」が言った。
「……そうか」
「最初の頃、なんか、すごく急いでるみたいな顔してたから。最近は違う。ちゃんと地に足がついてる感じ」
俺は、その言葉を聞いて——「お母さん」を改めて見た。
この人は、何かを知っているのか。
あるいは——ちひろが作った世界の一部として、こういう言葉を言うように設定されているのか。
まだわからない。
でも——この温かさは、本物だ。
「ごちそうさまでした」
「はい。明日はどこか行くの?」
「友達と」
「そう。楽しんできてね」
俺は、頷いた。
「楽しんできてね」。
ちひろが作った世界で、ちひろが生み出した「お母さん」が言う言葉。
それでも——その言葉は、俺の背中を押してくれた。
――
部屋に戻ると、スマホが震えた。
一ノ瀬からデータが届いていた。
経路の地図。エージェントの出現パターン。実行手順の最終版。
全部、丁寧に整理されていた。
一ノ瀬らしい、無駄のない資料だった。
俺はそれを確認しながら、もう一つのメッセージに気づいた。
【一ノ瀬:……ちひろに、会えるといいな】
その一文だけだった。
一ノ瀬が、こういう文章を送ってくるのは——初めてだった。
俺は、画面をしばらく見つめた。
それから返信を打った。
【俺:会える。必ず】
送信した。
既読がついた。
返信は来なかった。
でも——それでいい。
そのとき、また別のメッセージが来た。
陽菜からだった。
【陽菜:明日、怖い?】
俺は少し考えてから、答えた。
【俺:怖い。でも大丈夫だ】
すぐに返信が来た。
【陽菜:それ私が昼に言ったやつじゃん笑】
【陽菜:でも、そうだよね。怖いと大丈夫は同時に存在できる】
【陽菜:ちなみに私、さっきコンビニでお守りまた買ってきた笑】
【陽菜:何個あっても困らないし!】
俺は、画面を見て——また笑った。
【俺:お守りは、気持ちの問題だからな】
【陽菜:そうそう! わかってきたじゃん!】
【陽菜:じゃあ明日! ちひろ連れて帰ろう!】
【俺:ああ】
会話が終わった。
俺はスマホを置いて、窓の外を見た。
夜空。星。
明日、全部が変わる。
ちひろが戻る。
この世界の「バグ」が、少しだけ修正される。
俺は目を閉じた。
四十三年の人生で——こんな夜が来るとは思っていなかった。
女子高生の身体で、シミュレーションの世界の深部に踏み込む。
馬鹿みたいな話だ。
でも——三人がいる。
陽菜がいる。一ノ瀬がいる。
そして、ちひろが待っている。
それだけで——十分だった。
明日、行こう。
ちひろのところへ。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




