2-16「それぞれの準備」
作戦の準備を始めた翌日から、三人はそれぞれの仕事を進めた。
俺がやるべきことは、コードの設計だった。
ループ処理でマスタープロセスを止める。そのためには——「予測不能なタイミング」を生成するアルゴリズムが必要だ。
完全にランダムなタイミングでは、マスタープロセスが「ランダムだ」と認識して対処する可能性がある。
むしろ——「規則的に見えて、実は規則的でない」タイミングが最も効果的だ。
カオス理論のアプローチだ。
初期値のわずかな違いが、全く異なる結果を生む。外から見ると不規則に見えるが、内部には複雑な構造がある。
マスタープロセスには「規則的」と見せかけて、実は予測不能——そういうタイミングで繰り返し観測を送り込む。
俺はコードを書き続けた。
――
一ノ瀬は、核への経路の最終確認を進めていた。
南公園の出口から深層へ。深層を通って、さらに深い核の近傍へ。
これまでの接触で得たデータを元に、経路の地図を作成していた。
昼休み、一ノ瀬が図書室で作業しているのを見かけた。
「どのくらい進んでいる」
「七割だ。あと二日で完成する」
「エージェントの動きは」
「活発化している。でも——パターンは掴んでいる。決行のタイミングは、今週末がいい」
「今週末か」
「ちひろの意識の不安定化が、加速している気がする。これ以上待てない」
「わかった。今週末にする」
一ノ瀬は、地図に視線を戻した。
その横顔が——いつもより、少し険しかった。
「一ノ瀬」
「なんだ」
「無理するなよ」
一ノ瀬は、顔を上げなかった。
「……無理はしていない」
「嘘だ」
沈黙。
「……俺には、やるべきことがある。それだけだ」
「やるべきことをやりながら、無理するな、と言っている」
一ノ瀬は、少し間を置いた。
「……わかった」
短い返事だったが——聞こえていた。
――
放課後、陽菜が俺のところに来た。
「ねえ、ちーちゃん」
「なに」
「観測って——どうやるの?」
俺は陽菜を見た。
「どうやる、とは」
「だって私、扉を保持するために観測するんでしょ。今度はループ観測にも参加するって言ってたし。でも——観測って、ただ見るだけ? なんか、もっとちゃんとやる方法があるの?」
俺は少し考えた。
「一ノ瀬に聞いてみろ。あいつの方が説明がうまい」
「一ノ瀬くんに?」
「ああ。今図書室にいる」
陽菜は、少し考えてから「わかった」と言って図書室へ向かった。
俺は、その背中を見送ってから、コードの作業に戻った。
――
三十分後、陽菜が戻ってきた。
「わかった!」
「一ノ瀬に教えてもらったのか」
「うん! 一ノ瀬くんが説明してくれた」
「なんと言っていた」
「観測っていうのは、ただ見るんじゃなくて——意識を向けること、だって。物理的に目を向けなくても、意識がそこにある状態を作れれば、観測になるって」
「正しい説明だ」
「で、私がやるのは——ちひろのことを思い浮かべながら、ちひろのいる場所に意識を向け続けること。それがループ観測になるって」
「そうだ」
「なんだ、それなら得意じゃん!」
陽菜が、ぱっと明るい顔をした。
「ちひろのことを思い浮かべるのは、毎日やってたし。ずっとやってたし。これが観測だったんだ」
俺は、その言葉を受け取った。
陽菜はずっと——無意識に、ちひろを観測し続けていた。
探し続けていた。意識を向け続けていた。
それが、この作戦で最も重要な役割だ。
「陽菜」
「なに」
「お前は最初から、一番の観測者だった」
陽菜は、一瞬キョトンとした。
それから——照れくさそうに笑った。
「……なんか、急に褒めてくる」
「事実を言っただけだ」
「それ、一ノ瀬くんみたいな言い方」
「……そうか」
陽菜は笑いながら、自分の席に戻った。
「あと、一ノ瀬くんが言ってたんだけど」
「なんだ」
「観測を続けるコツは——感情を込めること、だって」
「感情を?」
「そう。ただ意識を向けるより、感情がある方が観測の強度が上がるって。量子力学的に、観測者の意識の強度が影響するって話があるって」
俺は、その説明を聞いて——一ノ瀬が陽菜に何を伝えたかったかがわかった気がした。
「感情を込めて観測しろ」という言葉は——陽菜への、一ノ瀬なりのエールだ。
お前の気持ちは、ちゃんと武器になる。
そういう意味だ。
「一ノ瀬、ちゃんと教えてくれたんだな」
「うん。なんか、珍しく丁寧だった」
「そうか」
「……一ノ瀬くんって、ちひろが絡むと変わるよね」
陽菜が、ふと言った。
「変わる、か」
「なんか、必死になる。いつもは超然としてるのに」
「……それが、一ノ瀬の本当の姿なんじゃないか」
「そうかもね」
陽菜は、窓の外を見た。
「……みんなで行こうね。今週末」
「ああ」
「ちひろを連れて帰ろう」
「帰る」
陽菜は頷いて、また前を向いた。
――
その夜。
俺はコードの最終確認をしながら、今週末のことを考えた。
マスタープロセスのループ処理による一時停止。
核へのアクセス。
核の近傍にある、一方通行の出口。
ちひろを連れ出す。
全部が、繋がっている。
でも——実行してみないとわからないことが、まだある。
ループ処理が本当に効くかどうか。
核への経路に、想定外の障害がないかどうか。
マスタープロセスが、何か別の手を打ってくる可能性。
リスクは、ある。
でも——やるしかない。
ちひろが待っている。
一方通行の出口でも、ちひろが外に出られるなら——それでいい。
俺はコードを閉じた。
準備は、ほぼ整った。
あとは——今週末を待つだけだ。
窓の外に、夜空が広がっていた。
星が出ている。
光速ぎりぎりで、届き続けている。
ちひろ。
もうすぐだ。
本当に、もうすぐだ。
作戦の準備を始めた翌日から、三人はそれぞれの仕事を進めた。
俺がやるべきことは、コードの設計だった。
ループ処理でマスタープロセスを止める。そのためには——「予測不能なタイミング」を生成するアルゴリズムが必要だ。
完全にランダムなタイミングでは、マスタープロセスが「ランダムだ」と認識して対処する可能性がある。
むしろ——「規則的に見えて、実は規則的でない」タイミングが最も効果的だ。
カオス理論のアプローチだ。
初期値のわずかな違いが、全く異なる結果を生む。外から見ると不規則に見えるが、内部には複雑な構造がある。
マスタープロセスには「規則的」と見せかけて、実は予測不能——そういうタイミングで繰り返し観測を送り込む。
俺はコードを書き続けた。
――
一ノ瀬は、核への経路の最終確認を進めていた。
南公園の出口から深層へ。深層を通って、さらに深い核の近傍へ。
これまでの接触で得たデータを元に、経路の地図を作成していた。
昼休み、一ノ瀬が図書室で作業しているのを見かけた。
「どのくらい進んでいる」
「七割だ。あと二日で完成する」
「エージェントの動きは」
「活発化している。でも——パターンは掴んでいる。決行のタイミングは、今週末がいい」
「今週末か」
「ちひろの意識の不安定化が、加速している気がする。これ以上待てない」
「わかった。今週末にする」
一ノ瀬は、地図に視線を戻した。
その横顔が——いつもより、少し険しかった。
「一ノ瀬」
「なんだ」
「無理するなよ」
一ノ瀬は、顔を上げなかった。
「……無理はしていない」
「嘘だ」
沈黙。
「……俺には、やるべきことがある。それだけだ」
「やるべきことをやりながら、無理するな、と言っている」
一ノ瀬は、少し間を置いた。
「……わかった」
短い返事だったが——聞こえていた。
――
放課後、陽菜が俺のところに来た。
「ねえ、ちーちゃん」
「なに」
「観測って——どうやるの?」
俺は陽菜を見た。
「どうやる、とは」
「だって私、扉を保持するために観測するんでしょ。今度はループ観測にも参加するって言ってたし。でも——観測って、ただ見るだけ? なんか、もっとちゃんとやる方法があるの?」
俺は少し考えた。
「一ノ瀬に聞いてみろ。あいつの方が説明がうまい」
「一ノ瀬くんに?」
「ああ。今図書室にいる」
陽菜は、少し考えてから「わかった」と言って図書室へ向かった。
俺は、その背中を見送ってから、コードの作業に戻った。
――
三十分後、陽菜が戻ってきた。
「わかった!」
「一ノ瀬に教えてもらったのか」
「うん! 一ノ瀬くんが説明してくれた」
「なんと言っていた」
「観測っていうのは、ただ見るんじゃなくて——意識を向けること、だって。物理的に目を向けなくても、意識がそこにある状態を作れれば、観測になるって」
「正しい説明だ」
「で、私がやるのは——ちひろのことを思い浮かべながら、ちひろのいる場所に意識を向け続けること。それがループ観測になるって」
「そうだ」
「なんだ、それなら得意じゃん!」
陽菜が、ぱっと明るい顔をした。
「ちひろのことを思い浮かべるのは、毎日やってたし。ずっとやってたし。これが観測だったんだ」
俺は、その言葉を受け取った。
陽菜はずっと——無意識に、ちひろを観測し続けていた。
探し続けていた。意識を向け続けていた。
それが、この作戦で最も重要な役割だ。
「陽菜」
「なに」
「お前は最初から、一番の観測者だった」
陽菜は、一瞬キョトンとした。
それから——照れくさそうに笑った。
「……なんか、急に褒めてくる」
「事実を言っただけだ」
「それ、一ノ瀬くんみたいな言い方」
「……そうか」
陽菜は笑いながら、自分の席に戻った。
「あと、一ノ瀬くんが言ってたんだけど」
「なんだ」
「観測を続けるコツは——感情を込めること、だって」
「感情を?」
「そう。ただ意識を向けるより、感情がある方が観測の強度が上がるって。量子力学的に、観測者の意識の強度が影響するって話があるって」
俺は、その説明を聞いて——一ノ瀬が陽菜に何を伝えたかったかがわかった気がした。
「感情を込めて観測しろ」という言葉は——陽菜への、一ノ瀬なりのエールだ。
お前の気持ちは、ちゃんと武器になる。
そういう意味だ。
「一ノ瀬、ちゃんと教えてくれたんだな」
「うん。なんか、珍しく丁寧だった」
「そうか」
「……一ノ瀬くんって、ちひろが絡むと変わるよね」
陽菜が、ふと言った。
「変わる、か」
「なんか、必死になる。いつもは超然としてるのに」
「……それが、一ノ瀬の本当の姿なんじゃないか」
「そうかもね」
陽菜は、窓の外を見た。
「……みんなで行こうね。今週末」
「ああ」
「ちひろを連れて帰ろう」
「帰る」
陽菜は頷いて、また前を向いた。
――
その夜。
俺はコードの最終確認をしながら、今週末のことを考えた。
マスタープロセスのループ処理による一時停止。
核へのアクセス。
核の近傍にある、一方通行の出口。
ちひろを連れ出す。
全部が、繋がっている。
でも——実行してみないとわからないことが、まだある。
ループ処理が本当に効くかどうか。
核への経路に、想定外の障害がないかどうか。
マスタープロセスが、何か別の手を打ってくる可能性。
リスクは、ある。
でも——やるしかない。
ちひろが待っている。
一方通行の出口でも、ちひろが外に出られるなら——それでいい。
俺はコードを閉じた。
準備は、ほぼ整った。
あとは——今週末を待つだけだ。
窓の外に、夜空が広がっていた。
星が出ている。
光速ぎりぎりで、届き続けている。
ちひろ。
もうすぐだ。
本当に、もうすぐだ。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




