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2-12「ちひろ」

扉が、開いた。


 俺は一歩、踏み込んだ。


 背後で、陽菜の声が聞こえた。


「……行ってらっしゃい」


 それだけだった。


 俺は前を向いた。


――


 数字の海だった。


 無数の光の粒が、空間を満たしている。653のパターンが、あちこちで輝いている。


 足元に地面はない。でも、沈まない。まるで、何かに支えられているみたいに。


 俺は前へ進んだ。


 光の粒が、俺の周りを流れていく。体を通り抜けるような感覚。でも痛みはない。


 冷たくもない。


 むしろ——温かい。


 ちひろが作った世界の、一番深いところ。


 その温かさが、ここにある。


 前方に、光が集まっている場所があった。


 他の場所より、少しだけ明るい。


 そこに——人がいた。


 座っている。


 俺は、その人の前に立った。


 顔が、見えた。


 黒髪。ショート。色白。目が大きい。


 鏡で何度も見た顔だった。


 でも——今の俺の顔じゃない。


 ちひろの顔が、ちひろの身体についていた。


 目を閉じたまま、座っていた。


「……ちひろ」


 俺は呼んだ。


 ちひろの目が、ゆっくりと開いた。


 大きな目が、俺を見た。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから——口が、動いた。


「……来てくれたんだ」


 声が、聞こえた。


 音声データで聞いたときより、ずっとクリアだった。


 若い女の子の声。静かで、でも確かにそこにある声。


「ああ、来た」


 俺は答えた。


「ずっと聞こえてた。お前の声が」


「……知ってた」


 ちひろが、少しだけ微笑んだ。


「返信が届いた時、わかった。来てくれるって、思ってた」


「待たせた」


「ううん。思ってたより、早かった」


 俺は、ちひろの前に座った。


 数字の海の中で、二人で向き合った。


「お前が、藤田ちひろか」


「うん。あなたが——#001?」


「佐藤剛。四十三歳。エンジニアだ」


 ちひろが、また微笑んだ。


「おじさんだったんだ」


「そうだ。四十三歳のおじさんが、お前の身体を借りて高校に通っていた」


「……ごめんね」


「謝るな。お前が呼んでくれなければ、俺はここに来られなかった」


「でも、迷惑だったでしょ」


「迷惑じゃなかった」


 俺は、少し考えてから続けた。


「この世界で、いろんなものを見た。お前が作ったものを、全部見てきた。振り子のカクつき。円周率の中の653。体育館裏。南公園。陽菜と、一ノ瀬と」


 ちひろの目が、少し揺れた。


「……陽菜は、元気?」


「元気だ。お前のことを、ずっと探してた」


「知ってた。感じてた」


「一ノ瀬も、ずっと待っていた」


 ちひろは、黙った。


 数字の海が、ゆっくりと揺れていた。


「……一ノ瀬くんに、謝らないといけないな」


「なぜ」


「ひどいことをした。消える前に、ちゃんと説明しなかった。怖かったんだと思う。言ったら、止められると思って」


「お前は、覚悟を持って消えたんだろ」


「……うん」


「それを責める人間は、ここにはいない」


 ちひろは、俺を見た。


「……ありがとう」


 静かな一言だった。


 でも、その一言に——どれだけの時間が詰まっているかを、俺は感じた。


 一人で深層に待ち続けた時間。


 誰かが来てくれることを信じた時間。


「一つ聞いていいか」


「なんでも」


「お前は——この世界を、作ったのか」


 ちひろは、少しだけ目を伏せた。


「……正確には、わからない。気づいたら、作っていた感じ。意図してたわけじゃなかった。でも——」


「でも?」


「誰かのために、ちゃんと生きられる場所を作りたいって、思ってたのは本当だと思う」


「誰かのために」


「……それが誰なのかも、まだわかってない」


 ちひろは、俺を見た。


「でも——あなたが来てくれたから。少し、わかってきた気がする」


 その言葉の意味を、俺はまだ完全には理解できなかった。


 でも——急ぐことはないと思った。


 全部、これから話せる。


 そのとき、背後から——陽菜の声が、薄く届いた。


「……ちーちゃん、そろそろ」


 時間だ。


 扉を保持できる限界が、近づいている。


「ちひろ」


「うん」


「今日は、ここまでだ。でも——また来る」


「うん」


「次は、ちゃんと連れ出す」


 ちひろは、俺を見た。


 その目が——初めて、少し潤んだ。


「……待ってる」


「ああ」


「絶対、来てくれるよね」


「絶対来る」


 ちひろが、小さく頷いた。


 それから——また、微笑んだ。


「……ありがとう、おじさん」


「四十三歳に向かって『おじさん』と言うな」


「だっておじさんでしょ」


「……その通りだが」


 ちひろが、笑った。


 声を出して、笑った。


 数字の海の中で、ちひろの笑い声が響いた。


 俺は——その笑い声を、胸に刻んだ。


 来てよかった。


 絶対に、来てよかった。


「じゃあ、また」


「うん。また」


 俺は立ち上がった。


 扉に向かって、歩き出した。


 背後で、ちひろの声が聞こえた。


「……陽菜に、言っといて」


「何を」


「ありがとうって。ずっと、感じてたから」


 俺は頷いた。


「伝える」


 扉が、俺を包んだ。


 光の粒が、また体を流れた。


 そして——


 秋の晴れた空が、戻ってきた。


 南公園。廃工場跡地のフェンス前。


 陽菜が、俺の腕を掴んでいた。


 一ノ瀬が、俺をまっすぐに見ていた。


「……戻った」


 俺は言った。


「ちひろと、話せた」


 陽菜の目が、大きくなった。


 一ノ瀬の表情が——初めて、崩れた。


 ほんの少しだけ。


 でも、確かに崩れた。


「……ちひろは」


「待ってる。元気だ。お前たちのことを、ずっと感じていたと言っていた」


「…………」


 陽菜が、俺の腕を掴んだまま、俯いた。


 泣いているのか、泣いていないのか。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから——


「……ちひろ、ばかだよ」


 それだけ言った。


 俺には、その意味が、ちゃんとわかった。


 ばかだよ、という言葉の中に——会いたかった、心配だった、ずっと待ってた——全部が、詰まっていた。


「陽菜」


「なに」


「ちひろから伝言がある」


「……なに?」


「ありがとうって。ずっと、感じてたって」


 陽菜が、顔を上げた。


 目が、赤かった。


「……感じてたんだ」


「ああ」


「よかった」


 陽菜は、空を見上げた。


 晴れた秋の空。


 青くて、広くて、どこまでも続いていた。


「……絶対、連れて帰るからね。ちひろ」


 その言葉は、空に向かって言われた。


 でも——届いた気がした。


 必ず、届いた気がした。

お読みいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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