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2-8「陽菜の消えた記憶」

翌日の昼休み。


 陽菜が、ノートを広げていた。


 普段は授業の内容より小道具リストが多いノートだが、今日は違った。


 びっしりと、文字が並んでいる。


「どのくらい書けた」


「けっこう書いた。でも——」


 陽菜は、ノートの途中のページを開いた。


「ここから先が、書けない」


 俺は覗き込んだ。


 陽菜の文字が、途中でぴたりと止まっている。


「どの時点から書けなくなった」


「去年の……六月ごろから、かな。ちひろと一緒にいた記憶が、なんかぼやける。さっきまで覚えてたことが、書こうとすると消えてる感じがする」


「書こうとすると消える?」


「うん。南公園のお花見は覚えてる。でも、その後——夏休みに入るちょっと前ぐらいから、なんか記憶が薄い。ちひろと何してたか、思い出せない」


 去年の六月。


 ちひろが振り子実験で世界のカクつきに気づいたのが、去年の秋だ。


 その前の、六月。


 ちひろが何かを始めた時期かもしれない。


「一ノ瀬」


「ああ。聞いていた」


 一ノ瀬がノートを取り出した。


「ちひろが世界の記録を本格的に始めたのは去年の秋だが——それより前から、何かを準備していた可能性がある。六月というのは、心当たりがある」


「何だ」


「ちひろが図書室で量子力学の本を借り始めたのが、去年の六月だ。記録に残っている」


「つまり——ちひろは去年の六月から、この世界の構造を調べ始めていた」


「そう思う。そしてその時期から、陽菜の記憶が欠落している」


 俺は陽菜を見た。


「陽菜、記憶が欠落している部分で——感覚だけ残っているものはあるか。内容は覚えていないが、雰囲気や感情だけ残っているもの」


 陽菜は少し考えた。


「……なんか、ちひろとすごく真剣な話をした感じがする。でも何の話かは思い出せない。それと——ちひろが何かを見せてくれた感じがする。何を見せてくれたかは、わからない」


「見せてくれた」


「うん。なんか、スマホじゃなくて、ノートか何かを。でも内容が見えない。霧がかかってる感じ」


 俺は一ノ瀬を見た。


「第三ブロックの解読を進めていたな。何かわかったか」


「昨夜、一つ気づいたことがある」


 一ノ瀬はノートを開いた。


「第三ブロックの数列には、欠落がある」


「欠落?」


「数列の特定の位置に、本来あるはずの数字がない。抜けている。まるで——消されたように」


 俺は息を止めた。


「消された、と言ったか」


「そうだ。意図的に削除されたような形跡がある。誰かが、第三ブロックの一部を取り除いた」


「誰が」


「わからない。でも——」


 一ノ瀬が、陽菜を見た。


「陽菜の記憶が欠落している部分と、第三ブロックの欠落部分が——対応している可能性がある」


 静寂が落ちた。


 陽菜が、ゆっくり口を開いた。


「……私の記憶が、数列の中に入ってるってこと?」


「ちひろがお前の記憶の一部を、アクセスキーとして第三ブロックに埋め込んだ可能性がある。そしてその記憶を——誰かが消した」


「誰かって、エージェントか?」


「あるいは——マスタープロセスと呼ぶべき存在かもしれない。エージェントの上位にいる、より強力な管理機能だ」


 マスタープロセス。


 第2期で登場予定だった上位存在が、ここで姿を現し始めた。


「つまり——陽菜の消された記憶を取り戻せば、第三ブロックが完成する」


「そう思う」


「そして第三ブロックが完成すれば、ちひろの意識座標へのアクセス方法がわかる」


「ああ」


 陽菜が、自分のノートを見た。


 記憶が途切れているページ。


「……私の記憶が、鍵の一部なんだ」


「可能性が高い」


「ちひろが、私の記憶をそこに入れたの?」


「意図的にそうしたなら——ちひろは、お前の記憶を信じていた。お前が必ずここに来ると、信じていた」


 陽菜は、しばらく黙っていた。


 消しゴムを、指でくるくる回していた。


「……消された記憶って、取り戻せるの?」


「わからない。でも——試す価値はある」


「どうやって?」


「記録者に聞く。あるいは——感覚から辿る。お前は『見せてくれた感じがする』と言った。その感覚を、もっと詳しく思い出せないか」


 陽菜は目を閉じた。


 しばらく、動かなかった。


 俺と一ノ瀬は、黙って待った。


 陽菜が、目を開いた。


「……ちひろが言ってた気がする。何か、言葉を言ってた」


「どんな言葉だ」


「……『覚えていてね』、かな。なんか、そんな感じの言葉を言ってた気がする」


 覚えていてね。


 ちひろが、陽菜に言った言葉。


 記憶を消される前に、ちひろが伝えた最後の言葉かもしれない。


「陽菜」


「なに」


「お前は覚えていた」


「え?」


「言葉そのものは思い出せなかった。でも——感覚は残っていた。ちひろが何かを見せてくれた感じ、真剣な話をした感じ、最後に何かを言った感じ。記憶を消されても、感覚だけは残っていた」


 陽菜は、俺を見た。


「……それって、覚えてるってこと?」


「俺はそう思う」


 陽菜の目が、少しだけ潤んだ。


 でも、泣かなかった。


「……ちひろ」


 小さく呟いた。


「消えても、ちゃんと残ってたよ。私の中に」


 その言葉が、昼休みの図書室に静かに満ちた。


――


 放課後、一ノ瀬と二人で解析を続けた。


 陽菜の「覚えていてね」という感覚の断片を、第三ブロックに照合していく。


 数列の欠落部分に、その断片を当てはめていく作業。


 エンジニアとして、これは「欠損データの復元」に近い作業だ。


 完全な復元は難しい。でも——輪郭は見えてくるかもしれない。


 一ノ瀬が、低く言った。


「……少しずつ、埋まってきた」


「ああ」


「完全ではない。でも——方向は見えてきた」


 俺はノートを見た。


 第三ブロックの輪郭が、少しずつ形になっていく。


 まだ完成していない。


 でも——ちひろが残した地図が、少しずつ読めるようになってきた。


 窓の外、夕日が沈んでいた。


 時間がない。


 でも——確実に、近づいている。

お読みいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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