2-6「意識座標」
翌日の放課後、チャイムが鳴った瞬間に俺は立ち上がった。
「ちーちゃん、早っ」
陽菜が、慌てて鞄を掴んだ。
「急ぐ」
「わかってる! でも私まだ片付けて——」
「三十秒でいい」
「三十秒で片付けできるかな!」
できた。
陽菜は二十八秒で鞄に荷物を詰めた。
俺は内心で「さすがだ」と思ったが、口には出さなかった。
一ノ瀬は、すでに廊下に出ていた。
――
南公園に着いたのは、放課後から三十分後だった。
三人で、廃工場跡地のフェンス前に立つ。
陽菜が、膝に手をついて息を整えていた。
「……走らなくてよかったんじゃ」
「急いだ方がいいと判断した」
「電車でも走るのは違くない?」
「走っていない。早歩きだ」
「早歩きが速すぎる!」
一ノ瀬が、無言でコードを準備していた。
俺も、スマホを取り出した。
「行くぞ」
「うん」
陽菜が、息を整えながら頷いた。
――
コードを走らせた。
今日は、前回より速く反応が来た。
記録者の声が届いた。
「来たか」
「『時間がない』と送ってきた。説明してくれ」
間がなかった。いつもより、応答が速い。
「ちひろの意識が、不安定になり始めている」
俺は息を止めた。
「どういう意味だ」
「深層の中心部に意識を固定するには、相当のエネルギーが必要だ。ちひろはそれを、この世界を作った時から継続している。だが——限界が近づいている」
「限界、とは」
「意識が拡散し始めれば、座標が特定できなくなる。最悪の場合——」
記録者が、珍しく言葉を切った。
「最悪の場合、どうなる」
「意識が完全に拡散すれば、ちひろという存在がこの世界から消える。記録の上からも」
消える。
今度こそ、完全に。
「どのくらい時間がある」
「正確にはわからない。だが——急ぐべきだ」
俺は一ノ瀬を見た。一ノ瀬は無表情のまま、でも目に力があった。
「もう一つ聞く。ちひろは意図的に消えたのか。自分で選んで、深層に移ったのか」
また間があった。
「……記録を確認する」
数秒。
「記録上では——ちひろは、消える三日前から深層への移行を準備していた。エージェントが来た日、ちひろは自分の意志で移行を実行した」
「やはり自分で、か」
「そうだ。ただし——」
「ただし?」
「ちひろが移行を選んだ理由の記録に、一つ気になる文字列がある」
「何だ」
「『誰かが来るまで、待つ』」
俺の胸の中で、何かが動いた。
誰かが来るまで、待つ。
ちひろは、消えたんじゃない。
待っていたんだ。
ずっと、深層の中心部で。
「ちひろの意識の座標を教えてくれ」
「……それは、干渉に近い」
「教えてくれなければ、間に合わないかもしれない。ルールを曲げてでも送ってきたなら——これも曲げられるはずだ」
長い沈黙があった。
これまでで一番長い間だった。
それから。
「……座標を送る。受け取れ」
スマホの解析コードが、自動的に数列を記録した。
653のパターンを含む、これまでで最も長い数列。
でも今回は——数字の配置が、これまでと明らかに違う。
「これが、ちひろの意識座標か」
「そうだ。ただし——」
「アクセス方法は、自分で見つけろ、ということか」
「……記録者として言える限界は、ここまでだ」
声が、少し遠くなった。
「一つだけ、最後に言う」
「なんだ」
「ちひろは——お前たちが来ることを、信じていた。記録に、その言葉が残っている」
「どんな言葉だ」
「『きっと来てくれる』」
声が、消えた。
空気が、元に戻った。
俺は、スマホの画面に残った座標データを見つめた。
きっと来てくれる。
ちひろは、信じていた。
一ノ瀬の声が、低く届いた。
「……座標が取れたな」
「ああ」
「アクセス方法は」
「これから解析する。でも——」
俺はスマホを握りしめた。
「方向は、見えた」
陽菜が、息はすっかり整っていた。でもその顔が、さっきとは違う色をしていた。
「……ちひろが、信じてたんだね」
「ああ」
「『きっと来てくれる』か」
陽菜は、フェンスの向こうの更地を見た。
「……絶対行くよ。絶対」
その声が、震えていた。
でも——泣かなかった。
そのとき。
視界の端に、何かが動いた。
公園の南側の木陰。
人影。
のっぺらぼうの、輪郭。
「……来た」
一ノ瀬が言った。
「エージェントか」
「ああ。俺たちの接触を検知したんだ」
俺はコードを切り替えた。
「逃げるぞ。人の多い方へ」
「うん」
「走るのか」
陽菜が聞いた。
「走る」
「今度は本当に走るのね」
「ああ」
「よし、行こう」
三人で、公園の北口へ向かって走り出した。
週末より速いエージェント。でも——俺たちには、座標がある。
ちひろの意識の場所が、スマホの中にある。
それだけで、今日は十分だ。
走りながら、俺は思った。
ちひろ、待っていてくれ。
きっと行く。
お前が信じてくれているなら——必ず、行く。
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