2-5「時間がない」
月曜日。
朝、教室に入ると、陽菜がすでにいた。
「おはよ、ちーちゃん!」
いつもの声。いつもの笑顔。
でも——目の奥に、土曜日の公園の空気がまだ残っていた。
「おはよう」
「ねえ、昨日ちゃんと寝れた?」
「まあ」
「私はあんまり寝れなかった。なんかいろいろ考えちゃって」
「ちひろのことか」
「うん。ちひろって、消えることを最初から知ってたんだよね。一ノ瀬くんの仮説が正しければ」
「正しい可能性が高い」
「……そっか」
陽菜は、窓の外を見た。
「私、ちひろが消えたとき、誰かにやられたのかと思ってた。エージェントみたいなやつに。でも、自分で選んだなら——」
「怒れない、か」
「怒れないし……なんか、すごく切ない」
陽菜の声が、わずかに揺れた。
でも泣かなかった。
「絶対に、会いに行くよ。ちひろに」
それだけ言って、スマホに目を落とした。
――
昼休み。
一ノ瀬が、新しいデータを持ってきた。
「深層中心部への経路の設計を進めた。記録者の座標と、体育館裏の座標を繋ぐと——経路の輪郭が見えてきた」
「どんな経路だ」
「直線ではない。深層には複数の『層』があるようだ。表層に近い浅い層から、中心部に向かって段階的に深くなっている」
「ステージ構造みたいなものか」
「そう解釈できる。現在俺たちが到達できているのは、深層の入口付近だ。ちひろのいる中心部まで、まだいくつかの層を越える必要がある」
「各層に何がある」
「まだわからない。でも——越えるたびに、エージェントの反応が強くなる可能性がある」
俺は、その言葉の意味を咀嚼した。
深層に近づくほど、システムの防衛機能が強くなる。ちひろのいる中心部は、最も守られた場所だ。
「どのくらい時間がかかる」
「経路の全体像が見えてから判断したい。今週中にもう一度、記録者に接触したい」
「同意だ。確認したいことがある」
「ちひろが意図的に消えたかどうか」
「ああ。仮説の裏付けが取れれば、次の手が見えてくる」
陽菜が、二人の会話を聞きながら言った。
「今週末また南公園?」
「できれば平日の放課後がいい。週末まで待てない気がする」
「なんで」
俺は少し間を置いた。
「エージェントの動きが、また変わり始めている気がするからだ」
「気がする、って」
「昨日の帰り道、路地で見た。影みたいなものが、一瞬——のっぺらぼうの輪郭をしていた」
陽菜が、息を呑んだ。
「……追いかけてこなかったけど、気づいてはいた」
「なぜ言わなかった」
「ファミレスの話の方が重要だったから。今日、話そうと思っていた」
一ノ瀬が、眉をわずかに動かした。
「チュートリアルが終わってから、エージェントの活動周期が変わっている。深層に俺たちが近づくたびに、反応が強くなる傾向がある」
「つまり、急いだ方がいい」
「急ぎすぎるのも危険だが——時間をかけすぎるのも危険だ」
俺たちの間に、緊張感が張り詰めた。
――
そのとき、陽菜が唐突に言った。
「そういえば」
「なに」
「土曜日、先生に補講頼んだって言い訳したんだけど」
「……何の」
「あの日、親に南公園まで何しに行くの?って聞かれて。友達と勉強するって言えなかったから、先生に補講頼まれたって言ったの」
「補講を、先生に頼まれた」
「うん」
「生徒が先生に補講を頼む立場じゃないだろ」
「言い訳って難しいね! 咄嗟だったし!」
俺は、力が抜けた。
四十三年の処世術を持つ俺でも、陽菜の発想は予測できない。
「……親は信じたのか」
「なんか微妙な顔してたけど、何も言わなかった」
「信じてない」
「まあでも、特に問題なかったからよしとする」
一ノ瀬が、静かに言った。
「次から、もう少し自然な言い訳を考えた方がいい」
「じゃあ一ノ瀬くんが考えてよ」
「……図書館で調べ物、でいい」
「あ、それシンプルでいいね」
「お前が思いつかなかっただけだ」
「むずかしいんだよ! 咄嗟に!」
俺はその会話を聞きながら、少しだけ笑った。
深層。エージェント。ちひろ。緊張した朝だったが——陽菜がいると、こうなる。
それが、ありがたかった。
――
放課後、一ノ瀬と二人で南公園への接触スケジュールを話し合っていたとき。
スマホが、震えた。
解析コードからのアラートだ。
南公園方向からの反応。
でも今回は——俺が干渉していない。
記録者の方から、送ってきた。
画面に、テキストが表示された。
```
時間がない。
```
たった四文字。
俺は画面を見つめた。
「一ノ瀬」
「見た」
一ノ瀬も、自分のスマホに同じ通知が届いていた。
「記録者は干渉しないルールのはずだった」
「ああ。でも——これを送ってきた」
「つまり」
「ルールを曲げてでも、伝える必要があると判断したということだ」
俺はスマホを握りしめた。
時間がない。
何に対して、時間がないのか。
ちひろへの道か。
エージェントの動きか。
それとも——俺たちが知らない、別の何かが起きているのか。
「明日、南公園に行く」
俺は言った。
「放課後すぐ」
「ああ」
「陽菜にも伝える」
「……ああ」
一ノ瀬の声が、珍しく急いていた。
時間がない。
その四文字が、今夜から俺たちの背中を押し始めた。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




