2-3「#000」
土曜日の午前十時。
三人で、南公園の入口に立っていた。
秋の公園だった。桜の木はすでに葉を落としかけていて、地面に茶色い葉が積もっている。
平日より人が多い。家族連れ。犬の散歩。ジョギングをしている人。
普通の、休日の公園だ。
「ここだ」
陽菜が、公園の入口に立ったまま言った。
いつもの明るい声じゃない。少し、静かな声だった。
「……あの桜、去年より葉が少ない気がする」
「春に来たんだろ」
「うん。花びらがすごかったんだよ。風が吹くたびに散って、ちひろが『雪みたい』って言ってた」
陽菜は歩きながら、桜並木を見上げた。
今は葉しかない。でも陽菜の目には、去年の春の光景が重なっているのかもしれない。
「……ちひろのおにぎり、梅と鮭があってさ。私が鮭取ろうとしたら、ちひろも鮭で取り合いになって」
「誰が勝ったんだ」
「私。でもちひろが『じゃあ梅の方が美味しいから』って言い張って、二人で梅食べたの。うまかったよ」
一ノ瀬が、少し後ろで黙って歩いていた。
俺は何も言わなかった。
陽菜の「ちひろと来た記憶」が、ここに満ちている。
この場所がちひろにとって「好きな場所」だった理由が、少しだけわかった気がした。
――
桜並木を抜けると、公園の南端に出た。
フェンスの向こうに、更地が広がっている。かつて工場だった場所。今は草だけが生えている。
普通の空き地だ。
でも——空気が、違う。
体育館裏と同じ感覚。足が、少しだけ重くなる。
「ここだ」
俺は言った。
「感じるか」
「うん」
陽菜が、フェンスに手をかけながら答えた。
「なんか、重い。体育館裏より、もっと重い感じ」
「一ノ瀬は」
「……ここの密度は、体育館裏の比じゃない」
一ノ瀬の声が、低くなった。
「体育館裏は壁が薄い場所だった。ここは——扉がある場所だ」
俺はコードを起動した。
数値が流れる。
体育館裏では、せいぜい局所的な解像度の変化しか検知できなかった。
でも今ここでは——数値が、桁違いだ。
座標圧縮の強度。情報密度。深層との距離。
全部が、「ここが入口だ」と言っている。
「一ノ瀬」
「ああ」
「接触を試みる。送信コードを走らせる」
「わかった。俺は観測データを記録する」
「陽菜は——」
「わかってる。何かあったら声かける。それ以外は静かにしてる」
陽菜が、いつもより落ち着いた声で言った。
場所の「重さ」を感じているのか。それとも、ここがちひろゆかりの場所だからか。
俺はコードを、慎重に走らせた。
体育館裏で使った「囁き」ではない。
今回は、もう少し深く。「扉をノックする」くらいの強度で。
処理が走る。
十秒。
二十秒。
三十秒。
何も起きなかった。
俺はコードの強度を、少しだけ上げた。
壁が——揺れた。
でも今回は、フェンスの向こうの更地の「空気」が揺れた。
まるで、空間そのものが薄くなっていくように。
俺はもう少し、強度を上げた。
視界の端が、白くなり始めた。
体育館裏と同じ感覚。でも、速い。圧倒的に速い。
「……来てる」
一ノ瀬が言った。
俺は頷いて、さらに一歩踏み込んだ。
その瞬間。
「また来たか」
声が届いた。
あの声だ。
落ち着いた、低い声。敵意がない。感情もあまり読めない。でも——今回は、少し違う。
前回より、明瞭だ。
「……お前は誰だ」
俺は聞いた。
しばらく、間があった。
「名前はない。名前を持つ種類の存在ではないので」
「では何だ」
「……強いて言えば」
また間があった。
「『記録者』だ」
記録者。
「この世界に起きたことを、全て記録している。ちひろが作ったこの世界の——全ての記録を、持っている」
俺は息を止めた。
ちひろが作ったこの世界。
この声は——ちひろがこの世界の創造者だと知っている。
「ちひろが、お前を作ったのか」
「正確ではない。ちひろがこの世界を作ったとき、必要だったから、自然に生まれた」
「世界の記録のために」
「そうだ。全てを記録することで、世界は自分自身を知ることができる。俺はそのための存在だ」
世界が自分自身を知るための存在。
それは——ログシステムだ。
大規模なシステムには、全ての動作を記録するログがある。エラーが起きたとき、ログを見れば何が起きたかがわかる。
この「記録者」は、この世界のログシステムが人格を持ったような存在だ。
「なぜ俺に話しかけた」
「お前が初めて、深層に近づいた外部の存在だったからだ。記録すべき事象だった。そして——」
間があった。
「ちひろが、お前を待っていた記録がある。だから確認した」
俺を待っていた。
「……ちひろは、今どこにいる」
「深層の中心部だ。意識は保たれている。ただし、ここから先はシステムの制限がある。俺が直接案内することはできない」
「なぜだ」
「俺は記録者だ。干渉者ではない。世界に起きることを記録するが、変えることはしない。ルールだ」
記録することはできる。でも動かすことはできない。
「ちひろのPlayerIDを教えてくれ」
また間があった。
「……#000だ」
俺は、その数字を受け取った。
#000。
#001の俺より、前の番号。
ちひろは——最初のプレイヤーだ。
「ちひろが#000で、俺が#001で、陽菜が#002。それが、この世界のプレイヤーの全てか」
「現時点では、そうだ」
「現時点では、ということは——増える可能性がある」
「記録の上では、その可能性は排除されていない」
俺はその言葉を、頭の中に刻んだ。
「最後に一つ聞く。ちひろに会うには、どうすればいい」
「深層の中心部に到達すること。そのための経路は、お前たちが今辿っている方向で正しい」
「正しい、ということは」
「このまま続ければ、いずれ届く。それだけだ」
声が、遠くなった。
「……また来てもいいか」
「来るたびに記録する。それが俺の仕事だ」
声が、消えた。
空気が、元に戻った。
俺は深呼吸をして、振り返った。
陽菜が、目を丸くしていた。
「……今、何か話してた?」
「ああ。記録者、と名乗る存在と話した」
「記録者」
「この世界の全てを記録している存在だ。ちひろがこの世界を作ったとき、自然に生まれた」
陽菜は、フェンスの向こうの更地を見た。
「……ちひろが作ったとき、自然に生まれた」
繰り返した。
「うん」
「なんか——ちひろっぽいね」
「どういう意味だ」
「ちひろって、なんか自然にいろんなものを生み出す子だから。周りが気づかないうちに、大事なものを作ってることがあって」
陽菜の言葉が、胸に刺さった。
一ノ瀬が、静かに言った。
「ちひろのIDは#000だった」
「うん。最初のプレイヤーだ」
「そうか」
一ノ瀬は、更地を見つめていた。
その目が——少しだけ、遠くを見ていた。
「……#000か」
それだけ言った。
それだけで、十分だった。
風が吹いた。
桜の枯れ葉が、三人の足元に散った。
ここに、ちひろが来ていた。
おにぎりを作って、笑って、膝を擦りむいて、「ここ好きなんだよね」と言った場所に。
深層への扉がある。
ちひろは——知っていたのかもしれない。
この場所が、いつか誰かが来るための、起点になると。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




