2-1「深層レイヤー」
あの声が、まだ耳の奥に残っていた。
「よく来た。お前が——#001か」
落ち着いた声だった。敵意はなかった。でも——それがかえって、不気味だった。
エージェントは言葉を発しない。「対象の削除を開始します」という機械的な警告を出すだけだ。あの声は、それとは質が違う。
俺を「待っていた」声だった。
何者かが、俺が来ることを知っていた。
PlayerIDを知っていた。
ということは——この世界のシステムそのものを、深く理解している存在だ。
設計者か。それとも——もっと別の何かか。
俺はノートに書き出した。
わかっていること。わかっていないこと。次にやるべきこと。
エンジニアとして、問題を整理する。感情より先に、構造を把握する。
そうしないと——あの声のことを考えるたびに、背中がざわつく。
――
翌日の放課後。
図書室に三人で集まった。
一ノ瀬が、新しいノートを開いた。
「報告がある」
「なんだ」
「昨夜のデータを解析した。体育館裏での接触時、スマホが記録していた数値を全部見直した」
俺は身を乗り出した。
「何がわかった」
「この世界には、二つのレイヤーがある可能性が出てきた」
二つのレイヤー。
「表層と、深層だ」
一ノ瀬はノートに図を描いた。
「俺たちが普段生活しているのが表層だ。学校、街、空——全部ここにある。俺たちが観測できる世界だ」
「そして深層は」
「観測できない領域だ。表層の下に——あるいは表層の『裏側』に——別の情報層が存在する。ちひろの意識があるのは、おそらくそこだ」
俺は考えた。
表層と深層。
エンジニアとして、その構造に心当たりがある。
大規模なシステムは、ユーザーが触れるフロントエンドと、その裏で動くバックエンドに分かれている。俺たちが見ている世界は「フロントエンド」だ。
そしてちひろは——バックエンドにいる。
「俺たちは今まで、表層から深層にアクセスしようとしていた」
「そうだ」
「体育館裏は、表層と深層の境界が薄い場所だった」
「ああ。でも——」
一ノ瀬が、図にもう一本の線を引いた。
「昨夜のデータを見ると、体育館裏は『境界が薄い場所』ではあるが、深層への『入口』ではない可能性がある」
「……どういう意味だ」
「薄い壁と、開いた扉は違う。俺たちはずっと、薄い壁に向かって押し続けていた。でも——扉は別の場所にあるかもしれない」
陽菜が、顔を上げた。
「扉って、どこにあるの?」
「まだわからない。でも——昨夜の声がヒントになるかもしれない」
「あの声の人が知ってるってこと?」
「あるいは、あの声の人が——扉そのものに関係している可能性がある」
静寂が落ちた。
陽菜が、少し間を置いてから言った。
「……なんか、話が大きくなってきたね」
「ああ」
「なんか、第2章っぽくなってきた」
俺は陽菜を見た。
「第2章じゃない」
「でも雰囲気そうじゃん。なんか、レベルアップした感じ」
「レベルアップという概念は正確じゃない。問題が複雑になっているだけだ」
「それをレベルアップって言うんじゃないの?」
一ノ瀬が、わずかに口の端を動かした。
笑いをこらえているのか。
俺は気づかないふりをした。
――
会話が一段落したあと、俺は一ノ瀬に聞いた。
「深層への入口を、どうやって探す」
「あの声だ。声の発生源を特定できれば、そこが入口に近い場所の可能性がある」
「どうやって特定する」
「昨夜の接触時、スマホが記録した座標データがある。声が聞こえた瞬間の、この世界の座標だ。そこから逆算できるかもしれない」
「どのくらい時間がかかる」
「二日から三日」
「わかった。俺は並行して、あの声の性質を分析する。エージェントとは明らかに違う。設計者とも、また違う可能性がある。第三の存在かもしれない」
一ノ瀬は頷いた。
「第三の存在、か」
「この世界には、俺たちが思っていた以上のプレイヤーがいるかもしれない」
プレイヤー。
その言葉が、頭の中で引っかかった。
PlayerID。
#001と#002は、俺と陽菜だ。
では——あの声の主は、何番だ?
「陽菜」
「なに」
「PlayerIDについて、もう一度考えたい。お前が#002で、俺が#001だとして——番号が続くなら、#000や#003がいる可能性がある」
陽菜は少し考えた。
「……あの声の人が、#000とか?」
「可能性はある」
「だとしたら——」
陽菜は言葉を止めた。
少しだけ、表情が変わった。
「ちひろは、何番なんだろ」
その問いが、静かに空気に溶けた。
誰も、すぐには答えなかった。
ちひろのPlayerID。
俺たちは今まで、その番号を知らなかった。
でも——今夜の声が「#001か」と確認してきたということは、PlayerIDというシステムを管理している存在がいる。そしてその存在は、全てのIDを知っているはずだ。
ちひろのIDも、含めて。
「……次に接触できたとき、聞く」
俺は言った。
「ちひろは何番か、と」
一ノ瀬が、静かに頷いた。
「それがわかれば——」
「ちひろに直接繋がれるかもしれない」
三人の間に、緊張感が張り詰めた。
今まで「声の断片」しか届かなかったちひろへの道が、一つ具体的になった。
窓の外、夕日が沈みかけていた。
「陽菜」
「なに」
「お前は——準備はできてるか」
陽菜は、俺を見た。
少しだけ間を置いてから、答えた。
「できてる。ずっとできてた」
その目が、まっすぐだった。
俺は頷いた。
「じゃあ行こう。深層へ」
「うん」
一ノ瀬が、ノートを閉じた。
立ち上がりながら、静かに言った。
「……俺も、準備はできている」
三人が、図書室を出た。
廊下の夕日が、三人の影を長く伸ばしていた。
でも、これは終わりじゃない。
俺たちは、まだ始まったばかりだ。
本日より第二章のスタートです!
皆様、引続き応援よろしくお願いします。




