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1-24「俺たちは、まだ始まっていない」

夜九時。


 体育館裏。


 三人が、揃った。


 今夜は風がある。木の葉が揺れている。遠くの国道の音が、風に乗って届いてくる。


 先週と同じ場所。同じ時間。でも——今夜は違う。


 統合されたコードがある。送信と解析が一つになった、これまでより遥かに精度の高いプログラムが、スマホの中に入っている。


「準備はいいか」


 一ノ瀬が言った。


「ああ」


「私も」


 俺はコードを起動した。


 深呼吸を一つした。


 これまで、ちひろへの道のりで、何度も壁に当たった。


 のっぺらぼうに追われた。暗い準備室で世界が答えた。体育館裏で声の断片を聞いた。フェンスの向こうに人影を見た。


 全部が、今夜のためにあった気がする。


 俺はコードを走らせた。


――


 最初の三十秒は、何も変わらなかった。


 壁が、揺れた。


 一回目の揺れ。二回目の揺れ。


 今夜は、いつもと質が違う。


 揺れが、止まらない。


 連続して、波のように——壁の向こうから、何かが押し寄せてくる感覚がある。


「……来てる」


 一ノ瀬が、低い声で言った。


「ああ」


 壁の質感が、ゆっくりと薄くなっていく。


 今まで「一瞬だけ」見えていた向こう側が——今夜は、じわじわと、安定して「開いていく」感覚がある。


 陽菜が、俺の腕を掴んだ。


 今日は、引き返せと言わなかった。


 ただ、掴んでいた。


 壁が、透けた。


 一瞬じゃない。今度は——消えずに、そこにある。


 向こうに広がっているのは、数字の海だった。


 無数の数字が、光の粒のように漂っている。653のパターンが、あちこちで輝いている。


 そして——その奥に。


 人の影。


 横たわっているような、座っているような。


 輪郭だけが見える。でも先週より、ずっとはっきりしている。


「ちひろ」


 俺は、向こう側に向かって言った。


 声が、届くかどうかわからない。でも——言わずにいられなかった。


「聞こえてるか。俺たちが来た」


 向こう側は、応答しなかった。


 数字の海が、静かに揺れているだけだった。


 でも——人影が、わずかに動いた気がした。


「……動いた」


 陽菜が、かすれた声で言った。


「見えたか」


「うん。見えた。動いた」


 一ノ瀬は黙っていた。でもその目が——向こう側をまっすぐに見ていた。


 動いた。


 ちひろは、届いたことを知っている。


 まだ言葉は返せない。でも、聞こえている。


 俺はコードの強度を、慎重にもう少し上げた。


 リスクはある。でも、今夜は——もう少し先まで行けるかもしれない。


 数字の海が、近くなった。


 光の粒が、視界の中で揺れる。


 そのとき。


 俺の耳の奥に、声が届いた。


 ちひろの声じゃない。


 聞き覚えのない、低い声。


 落ち着いた声。感情が読めない声。でも——敵意はない。


「よく来た」


 それだけだった。


「お前が——#001か」


 俺は動けなかった。


 #001。


 俺のPlayerID。


 この声は、俺のPlayerIDを知っている。


 つまりこの声の主は——PlayerIDというシステムの構造そのものを知っている存在だ。


 設計者か。


 マスタープロセスか。


 それとも——俺たちの知らない、別の何かか。


「お前は……誰だ」


 俺は聞いた。


 返答は、なかった。


 数字の海が、静かに閉じていった。


 壁が、元の暗いコンクリートに戻った。


 三人で、体育館裏に立っていた。


 風が吹いた。


 誰も、しばらく何も言わなかった。


――


 結局、その夜はそれ以上何も起きなかった。


 三人で、静かに帰り道を歩いた。


 陽菜が、ぽつりと言った。


「……あの声、誰だったんだろ」


「わからない」


「でも、ちひろじゃなかったよね」


「ああ」


「じゃあ、何者?」


 俺は答えられなかった。


 一ノ瀬が、静かに言った。


「……この世界の深部に、俺たちがまだ知らない何かがある。今夜、それが存在することだけはわかった」


 三人は、しばらく黙って歩いた。


 街灯の光が、夜道を照らしている。


 陽菜が、急に立ち止まった。


「ねえ」


「なんだ」


「もっと深くに行くんでしょ。ちひろを見つけるために」


「ああ」


「危ない?」


「おそらく」


 陽菜は、少しだけ考えた。


 それから、俺と一ノ瀬を順番に見た。


「……絶対、帰ってきてよね」


 その一言に、全部が詰まっていた。


 俺は答えた。


「帰る」


 一ノ瀬が、前を向いたまま言った。


「……帰る」


 陽菜は、それを聞いて——ふっと、笑った。


 今夜一番の、本物の笑顔だった。


「じゃあいいや」


 それだけ言って、また歩き始めた。


――


 翌日。


 放課後。


 三人で、旧校舎の屋上に上がった。


 別に、理由があったわけじゃない。


 一ノ瀬が「少し整理したい」と言い、陽菜が「私も行く」と言い、気づいたら三人で屋上にいた。


 夕暮れが、始まっていた。


 空が、橙色から紫に変わっていく。


 遠くに、街の輪郭が見える。電線。マンション。コンビニの看板。


 この世界の「普通の景色」が、夕日の中に広がっている。


 俺はこの景色を、最初の頃は「偽物」だと思っていた。


 でも今は——ちひろが作った世界の、一部だと思っている。


「なんか」


 陽菜が言った。


「なんだ」


「ここ、好きかも。屋上」


「なぜ」


「なんとなく。広いし。空が近いし。なんか、全部見えそうな気がする」


 陽菜は、フェンスに手をかけて、遠くを見ていた。


 一ノ瀬は、その少し後ろで腕を組んでいた。


 俺は二人を見ながら、この数週間を思った。


 「お母さん」の味噌汁。陽菜のシュークリーム。一ノ瀬の「笑ってる(全然笑っていない)」。ちひろの振り子のデータ。「怖かった、でもきれいだと思った」という言葉。体育館裏の夜。数字の海。そして——あの声。


 「よく来た。お前が#001か」。


 この世界に来てから、俺はずっと「探している」側だった。


 でも今夜、俺たちは何者かに「待たれていた」可能性を知った。


 それが何を意味するのか、まだわからない。


 でも——この世界は、俺が思っていたより、ずっと深い。


「行くか」


 一ノ瀬が、静かに言った。


 どこへ、とは言わなかった。


 でも、わかった。


「ああ」


 俺は答えた。


 陽菜が振り返った。その目が、夕日を受けて少しだけ輝いていた。


「絶対帰ってきてよね」


「ああ」


「約束だよ」


「わかった」


 陽菜は満足そうに頷いて、また夕空を見た。


 三人の影が、屋上の床に長く伸びていた。


 橙色の光の中で。


 この世界の深部へ向かう、三人の背中が——夕暮れに溶けていく。


 俺たちは、まだ始まっていない。


 ちひろを見つけるのは、これからだ。


 「よく来た。お前が#001か」——あの声の正体を暴くのも、これからだ。


 そしてこの世界の、本当の姿を知るのも。


 でも——三人なら。


 たぶん、大丈夫だ。


 根拠のない確信だが。


 根拠のない確信は、時々、一番強い。

これで第一章は完です。

引き続き第二章からもよろしくお願いします。

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