1-23「ちひろは、オレを呼んだ」
コードの統合が完成したのは、四日後の夜だった。
一ノ瀬からメッセージが来た。
【一ノ瀬:完成した。明日、試せる】
俺はそれを読んで、スマホを置いた。
明日。
いよいよ、「向こう側」への安定したアクセスを試みる。
俺はノートを開いた。
これまでの記録を、もう一度見直す。653のアドレス数列。ちひろの声。境界線の形。人影の輪郭。
全部が、一つの方向を指している。
でも、俺の中にまだ一つ、解決していない問いがあった。
なぜ、俺だったのか。
ちひろは多くの人に呼びかけることができたはずだ。なぜ、四十三歳のエンジニアが選ばれたのか。
俺はスマホを取り出した。
あの夜——雨の中で書いていたコードのデータが、まだ残っている。
死の直前まで書いていた、あのコード。
これまで何度か部分的に使ったが、全体を詳細に解析したことはなかった。
今夜、向き合う時間があった。
――
コードを開く。
エンジニアとして書いたプログラム。システムの解析用ツール。自分でも忘れかけていた、古い仕事のコードだと思っていた。
でも、ゆっくりと読み直していくうちに——違和感が生まれた。
このコードは、何かを「送る」ための構造をしていない。
むしろ——何かを「受け取る」ための構造だ。
外部からの信号を検出し、特定のパターンを識別し、受信した情報を解析するための——受信プログラムだ。
俺は手を止めた。
なぜ俺は、あの夜、これを書いていたのか。
記憶を探る。あの夜のことは、断片的にしか残っていない。雨。夜の道路。ブレーキ音。白いヘッドライト。
でも——コードを書いていた記憶は、ある。
画面に向かって、何かを受け取ろうとしていた。
「……俺は」
呟いた。
「信号を、送っていたんじゃない」
受け取ろうとしていた。
653のアドレス数列が「呼びかけ」であるならば——その呼びかけを受信できる状態にあった人間が、この世界に引き寄せられた。
エンジニアとして、そのための受信プログラムを、あの夜に書いていた。
意図していたかどうかは、わからない。でも、結果として——俺は、ちひろの呼びかけを「受け取れる状態」にあった。
「……俺は、ちひろに呼ばれた」
その確信が、静かに、でも確実に胸の中に落ちた。
なぜ俺だったのか。
ちひろが俺を選んだわけじゃないかもしれない。ただ、ちひろの呼びかけを受け取れる条件が、俺に揃っていた。
でも——それは偶然じゃないとも思う。
ちひろが「助けを求めるコード」を世界に埋め込んで。
俺が「それを受け取るプログラム」を書いていて。
雨の夜に、それが繋がった。
俺は窓の外を見た。
夜空。星。
ちひろ、俺はここに来た。
偶然でも必然でも——お前の呼びかけが、俺に届いた。
――
翌朝、一ノ瀬に会うなり、俺は言った。
「昨夜、わかったことがある」
「なんだ」
「俺が持っていたコードは、受信プログラムだった。送信じゃなくて、受信。ちひろの呼びかけを受け取るための構造を、俺はあの夜に書いていた」
一ノ瀬は、俺を見た。
少しの間、何も言わなかった。
「……つまり」
「俺は、ちひろに呼ばれてここに来た。意図的かどうかはわからない。でも、ちひろの呼びかけを受け取れたのは——俺だった」
一ノ瀬はまた、黙った。
今度の沈黙は長かった。
廊下の向こうから、朝のざわめきが聞こえてくる。チャイムが鳴るまで、あと少し。
「……お前で、よかったと思う」
一ノ瀬が、静かに言った。
「俺では、ちひろに届かなかった。俺はこの世界の内側しか知らない。でもお前は——外を知っている。外から来た人間だから、この世界の嘘が見えた。ちひろの声も、拾えた」
俺は何も言えなかった。
「……お前がいなければ、今もちひろの声は誰にも届いていなかった。だから——」
一ノ瀬は、俺から視線を外した。
廊下の先を見ながら、続けた。
「ありがとう、と言うべきなのかもしれない。うまく言えないが」
四十三年の人生で、「ありがとう」という言葉をこれほど重く受け取ったことはなかった気がする。
「……俺は、ちひろを探す。必ず」
それだけ言えた。
「ああ」
一ノ瀬が、頷いた。
それだけだったが——それだけで、十分だった。
――
昼休み。
陽菜が、いつもの購買のパンを持って教室に戻ってきた。
俺と一ノ瀬が話しているのを見て、少しだけ立ち止まった。
何かを察したのか——陽菜は珍しく、声をかけずに自分の席に着いた。
静かに、パンを食べ始めた。
俺は陽菜の横顔を見た。
いつもならここで「なんの話してたの!?」と割り込んでくる。でも今日は、空気を読んで黙っている。
陽菜は強い。でも、こういう繊細さも持っている。
「陽菜」
俺は声をかけた。
「なに」
「今日の夜、準備が整った。境界の向こう側に、安定してアクセスできるか試す」
陽菜は俺を見た。
「……うん」
「来るか」
「当然」
迷いのない返事だった。
「ちひろのとこに行くんでしょ。私も行く」
「危険がある可能性もある」
「わかってる。でも行く」
陽菜は、パンを持ったまま、俺をまっすぐに見た。
「私、ちひろのこと待ってたんだよ。ずっと。だから——最後まで一緒にいたい」
俺は、陽菜の言葉を受け取った。
「わかった。夜九時、体育館裏に集合だ」
「うん」
陽菜は頷いて、また前を向いた。
パンを食べ始めた。
でも、その口元が——少しだけ、緩んでいた。
――
放課後、俺は一人でコードの最終確認をした。
送信コードと解析コードの統合版。これで、「向こう側」への安定したアクセスができるはずだ。
完璧じゃない。まだ未知の部分がある。でも——やるしかない。
俺はスマホを閉じて、窓の外を見た。
夕日が、校舎の屋上を赤く染めていた。
今夜、三人で行く。
ちひろのいる「向こう側」へ。
返信は、まだ来ていない。
でも——必ず届いている。
根拠のない確信だが。
根拠のない確信は、時々、一番強い。
俺はコードを最後にもう一度確認して、スマホをポケットに入れた。
探す。
必ず。
それだけが、今の俺にできる、一番正確な言葉だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




