1-22「設計者のサインは、愛だったのか」
世界の端を見た翌々日。
三人で、次の一手を考えていた。
図書室。夕方の光。一ノ瀬が地図を広げている。陽菜がその横でノートを覗き込んでいる。
「フェンスの向こうに踏み込むには、もう少しコードの精度を上げる必要がある」
一ノ瀬が言った。
「今の状態では、一瞬しか『向こう側』を見られない。安定したアクセスができるようにするには、送信コードと解析コードを統合する必要がある」
「どのくらい時間がかかる」
「三日から五日」
「わかった。それまでに俺が解析コードの改良を進める」
「頼む」
陽菜が、ノートから顔を上げた。
「ねえ、私にできることある?」
「お前は今まで通り、世界の変化を感知する係だ」
「それだけ?」
「お前の感知能力は、俺たちより精度が高い場合がある。それは重要な役割だ」
陽菜は少し考えてから「わかった」と言った。
納得したというより、信頼した、という顔だった。
――
作業を進めながら、俺は考えていた。
物理定数。
微細構造定数。重力定数。光速。プランク定数。
全部が、完璧なバランスで設定されている。
1%のズレが、この宇宙の存在を消す。
それは——偶然じゃない。
誰かが、設定した。
誰かが、この世界を「ちゃんと生きられる場所」にするために、全ての定数を調整した。
それは——どういう動機からだろうか。
エンジニアとして考える。俺はシステムを作るとき、誰かのために作る。クライアントのために。ユーザーのために。使う人間が快適でいられるように、仕様を決める。
この世界の設計者も、同じだとしたら。
誰かのために、この世界を作った。
「一ノ瀬」
俺は顔を上げた。
「なんだ」
「ちひろが『この世界は誰かへの贈り物みたいだ』と言っていたな」
「ああ。昨日も話したが」
「贈る相手がいるとしたら——それは誰だと思う」
一ノ瀬は少し間を置いた。
いつもより長い間だった。
「……わからない。でも」
「でも?」
「贈り物を作るとき、人は——その相手のことを、ずっと考えながら作る。この世界が誰かへの贈り物なら、設計者はその誰かのことを考えながら、全ての定数を設定したはずだ」
俺は、一ノ瀬の言葉を反芻した。
「つまり」
「ちひろが言っていたとおりだとしたら——この世界は、愛で作られているかもしれない」
静かな一言だった。
でも、その言葉の重さが、図書室の空気の中にゆっくりと沈んでいった。
「え、ちょっと待って」
陽菜が、身を乗り出した。
「今、なんて言った?」
「世界は愛で作られているかもしれない、と言った」
「……えっ、えっ」
陽菜が、俺と一ノ瀬を交互に見た。
「世界って愛で作られてるの? エモくない!?」
「そういう話じゃ——」
「でもそういう話じゃん! さっきそう言ったじゃん!」
一ノ瀬が、珍しく言葉に詰まった。
俺は初めて見た。一ノ瀬が「言葉に詰まる」という現象を。
「……正確には、可能性の話だ」
「でも可能性があるってことは、ありうるってことじゃん!」
「……そうだが」
「じゃあ神様って愛の人なんだ! いい話すぎる!」
「神様じゃなくて設計者だ」
「設計者でも愛の人ってことじゃん!」
一ノ瀬が、視線を手元のノートに戻した。
その耳が、また赤くなっていた。
俺は黙って、その光景を見守った。
陽菜には、こういう力がある。
難解な話を、一瞬で「いい話」に変換する力。
それは馬鹿にしているんじゃない。本質を、もっとシンプルな言葉で掴んでいる。
「……陽菜」
一ノ瀬が、低い声で言った。
「なに」
「その解釈は、間違っていない」
陽菜が目を丸くした。
「え、一ノ瀬くんに認めてもらえた」
「正確な表現ではないが、本質としては正しい」
「やった」
陽菜が、こぶしを小さく握った。
一ノ瀬は、また前を向いた。
でもその口の端が、ほんのわずかに動いた気がした。
――
帰り道。
今日は三人で同じ方向に歩いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
夕暮れの住宅街。電線に鳥が止まっている。遠くから、夕食の匂いが漂ってくる。
「ねえ」
陽菜が言った。
「なんだ」
「設計者って、結局誰なんだろうね」
誰も、すぐには答えなかった。
「神様でも、宇宙人でも、AIでも、なんでもいいんだけど。その人ってさ——ちゃんと幸せなのかな」
俺は、足を止めた。
陽菜を見た。
「……なんでそんなことを考えた」
「だって、愛で世界を作ったとして。でもその人、作った相手と一緒にいられるわけじゃないじゃん。壁の向こうにいるんでしょ。それって、なんか——寂しくない?」
俺は返事ができなかった。
一ノ瀬も、黙っていた。
陽菜の問いが、夕暮れの中に静かに漂っていた。
設計者は、幸せなのか。
愛で作った世界の「向こう側」で、ちひろは何を思っているのか。
もしちひろが、この世界を誰かのために作ったとしたら。
その「誰か」に届くことを、今も願っているのか。
「……ちひろは、幸せだと思う」
一ノ瀬が、静かに言った。
「なんで?」
「あいつは——諦めない人間だから」
それだけだった。
陽菜が、一ノ瀬を見た。
何も言わなかった。でも、その表情が少しだけ柔らかくなった。
三人で、また歩き始めた。
――
家に帰り、部屋に戻った。
俺はメモ帳を開いた。
「私を探して」という文字を、もう一度見る。
愛で作られた世界。
誰かへの贈り物。
ちひろは、この世界を「怖かった、でもきれいだと思った」と感じた。
恐怖と美しさを同時に感じながら、それでも記録をやめなかった。誰かに届けようとした。
ちひろ、お前は——誰のために、この世界を作ったんだ。
答えはまだ、ない。
でも今夜、俺はその問いを初めて——「怖い問い」ではなく「知りたい問い」として受け取った気がした。
窓の外に、星が出始めていた。
一つ、また一つと。
光速ぎりぎりで、光を届けながら。
ちひろの「向こう側」から、今夜も何かが届いているかもしれない。
俺はメモ帳を閉じて、コードの改良に取り掛かった。
三日から五日。
それまでに、準備を整える。
必ず、届かせる。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




