1-21「陽菜の本当のこと」
翌朝。
陽菜は、いつも通りだった。
「おはよ、ちーちゃん! 今日さ、購買に新しいパン出るらしいよ! 絶対売り切れる前に行こうね!」
昨夜、倉庫エリアのフェンス前で、声が震えていた陽菜と同一人物とは思えない明るさだった。
「……おはよう」
「なんか眠そう。昨日遅かったの?」
「少し」
「もう、ちゃんと寝ないと。肌に出るよ」
四十三歳のエンジニアに「肌に出るよ」と言える存在が、この世界にいるとは思っていなかった。
俺は席に着きながら、陽菜を観察した。
明るい。笑っている。普通だ。
でも——昨夜のあの「近いじゃん」という震えた声が、俺の耳にまだ残っている。
陽菜は強い。切り替えが速い。それは本当だ。
でも、切り替えた「裏側」に何かが積み重なっていないか。
俺は今日、陽菜と話す必要があると思った。
――
昼休み。
一ノ瀬は図書室で境界線のデータ整理をしていた。
俺は陽菜を、屋上に呼び出した。
「なに、また秘密の話?」
「秘密じゃない。聞きたいことがある」
陽菜は俺の顔を見て、少しだけ表情を変えた。
いつもの軽さが、わずかに引っ込んだ。
「……なんか、真剣な顔してる」
「真剣だ」
屋上のフェンス際に並んで立った。空が広い。雲が、ゆっくり動いている。
「陽菜。PlayerIDのこと、本当はどこまで知ってる」
一拍の沈黙。
「……第8話で全部話したじゃん」
「全部じゃないと思う」
陽菜は、フェンスを両手で掴んだ。
空を見ながら、少し間を置いた。
「……変な夢を見るって、言ったっけ」
「ちひろと一緒にいた夢、と言っていた」
「うん。それだけじゃないんだよね、実は」
陽菜の声が、少しだけ低くなった。
「もっと前の夢を見る。ちひろと私が、この学校より前に一緒にいる夢。どこかわからない場所で、二人でいる夢。でも起きたら全部、消えてる。どんな場所だったか、何を話したか、全部忘れてる」
「毎回?」
「毎回。夢だとはわかるんだよ。でも、どんな内容かが残らない。なんか、消されてるみたいな感じ」
消されている。
第2期35話で回収予定の「記憶欠落」の伏線。今、陽菜の口から、その感触が出てきた。
「その夢、いつから見てる」
「……ちひろが消えた頃から、だと思う。でも、もしかしたらもっと前から見てたかもしれない。よく覚えてない」
「何か、夢の中で感じることはあるか。断片的でもいい」
陽菜は少し考えた。
「……温かい感じ。怖くない。ちひろが近くにいて、なんか、ずっとそこにいたような気がする感じ」
ずっとそこにいたような気がする。
陽菜とちひろの関係は、この世界で生まれたものじゃないかもしれない。もっと前から、別の形で繋がっていた可能性がある。
「陽菜」
「なに」
「もう一つ聞く。自分がプレイヤーだということ、本当は最初から気づいてたんじゃないか」
陽菜の手が、フェンスをぎゅっと握った。
しばらく、何も言わなかった。
風が吹いた。茶髪が揺れた。
「……うん」
静かに言った。
「なんとなく、わかってた気がする。最初から。でも——」
「怖かった」
「うん。考えたら止まれなくなりそうで。だから、考えないようにしてた」
考えたら止まれなくなりそう。
一ノ瀬が「泣いたら止まれなくなる気がする」と言っていた。
二人が、同じ言葉を使う。
この世界の「真実」を知ることへの恐怖は——知っている人間ほど、深い。
「陽菜」
「なに」
「お前が怖かったのは、正しい。それだけ本気でこの世界を生きてきたということだから」
陽菜は俺を見た。
「……ちーちゃんって、本当に大人っぽいこと言うよね」
「四十三歳だからな」
「あ、そっか」
陽菜が、少しだけ笑った。
でも、すぐに真剣な顔に戻った。
「ねえ」
「なに」
「私、ちゃんと存在してるよね」
また、その問いだった。
第8話と同じ問いが、ここで繰り返された。
あのとき俺は、少し間を置いてから答えた。
今回は——間を置かなかった。
「存在してる。俺が保証する」
陽菜は俺を見た。
目が、少し潤んでいた。
「……今回、早かった」
「前回より確信が増した」
「何が変わったの」
俺は少し考えた。
「お前のことを、もっとよく知った。それだけだ」
陽菜は、俺の言葉をしばらく受け取るように静かにしていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう」
珍しかった。陽菜が「ありがとう」とだけ言って、それ以上何も言わないのは。
いつもなら、すぐに笑顔に戻って話題を変える。
でも今日は、そのまま空を見ていた。
俺も、空を見た。
雲が動いている。
ちひろがいる「向こう側」は、この空の先にある。
陽菜の夢の中の「温かい場所」は、ちひろと繋がっている。
記憶が消されているとしても、感覚だけは残っている。
それは——本物の繋がりだ。
「陽菜」
「なに」
「夢で見た場所のこと、もっと思い出せそうになったら教えてくれ」
「……うん。思い出せたら、絶対教える」
陽菜は頷いた。
その顔が、少し——重さを降ろしたみたいに、軽くなっていた。
――
放課後、一ノ瀬に報告した。
「陽菜が、記憶の欠落を認識している。消されているという感覚を持っている」
一ノ瀬は、ノートから顔を上げた。
「……予想していた範囲だ。ただ」
「ただ?」
「陽菜が自分でその感覚に気づいているなら、システムの記憶消去が完全ではないということだ。痕跡が残っている」
「それは、回収できる可能性があるということか」
「ある。ただし、強引にやればエージェントが動く可能性がある。慎重にやる必要がある」
俺は頷いた。
「わかった。急がない」
一ノ瀬は再びノートに向かった。
俺はその横顔を見ながら、思った。
陽菜の記憶の中に、ちひろとの「前の繋がり」がある。
それが何なのかは、まだわからない。
でも、陽菜がここにいる理由の一部が、そこに隠れている気がした。
窓の外に、夕日が傾いていた。
今日も、一歩進んだ。
ゆっくりでも、確実に。
俺たちは、ちひろに近づいている。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。
ってか地震大丈夫でしたか?




