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1-20「境界線の向こうに、何かある」

送信から三日が経った。


 返答は、まだ来ていない。


 でも、諦めていない。


 ちひろの声のデータを、もう一度聞き直した。「聞こえる? まだここにいる」。あれは、問いかけだ。問いかけをした人間は、答えを待っている。


 待っているなら——俺たちの返信も、待っているはずだ。


 届いた。必ず届いた。ただ、返答が来るまでに時間がかかっているだけだ。


 そう思うことにした。


 根拠のない確信だが、根拠のない確信は時々、一番強い。


――


 一ノ瀬が新しい提案を持ってきたのは、送信から四日後の朝だった。


「世界の境界を、もっと精密に地図に落とし込みたい」


「どういう意味だ」


「これまでの調査で、校舎の東側に『端』があることはわかった。でも、その境界線がどういう形をしているか、まだ全体像が見えていない」


 一ノ瀬は手書きの校舎の地図を広げた。


「ここからここまで、解像度の変化を記録しながら歩く。変化が起きる地点を全部印して、境界線の形を特定する」


「地図を作るのか」


「ああ。境界の形がわかれば、どこから踏み込むのが最も効率的かが見えてくる」


 俺はその発想を、エンジニアとして評価した。


 境界の全体像を把握する前に動くのは非効率だ。一ノ瀬の判断は正しい。


「陽菜も来るか」


「当然」


 陽菜は、すでに準備を終えた顔をしていた。


――


 放課後、三人で調査を始めた。


 それぞれスマホを持ち、解像度の変化を記録しながら歩く。


 校舎の東棟から南側へ。体育館の横を通り、倉庫エリアへ。そこからさらに南へ。普段、生徒がほとんど来ない区画だ。


「ここから解像度が下がり始める」


 一ノ瀬が地図に印をつけた。


「俺も同じ地点で変化を感知した」


 俺が確認する。


 陽菜が、少し遅れて言った。


「……なんか、ここから先って歩きにくくない? 足が、ちょっと重い気がする」


「解像度が低い場所はシステムのリソースが薄い。物理的な手応えも変わる」


「なんか、砂の中を歩いてる感じ」


「そういうことだ」


 三人で、少しずつ南へ進んでいく。


 印をつけながら歩くこと、三十分。


 地図が、少しずつ埋まっていく。


「見えてきた」


 一ノ瀬が地図を確認しながら言った。


「境界線は、直線じゃない。弧を描いている」


 俺も地図を覗いた。


 点を繋ぐと——緩やかな弧になっている。まるで、何かを中心として、その周りを囲むように境界が引かれている。


「中心はどこだ」


「……計算すると」


 一ノ瀬が、地図の上で指を動かした。


「体育館裏」


 俺は息を止めた。


 体育館裏。ちひろの声が届いた場所。ちひろが近づいた痕跡があった場所。


 その場所を中心として、世界の境界線が弧を描いている。


「……ちひろが、この境界の中心にいる」


「そう解釈できる」


 陽菜が、地図を見ながら言った。


「ちひろって、ずっとそこにいるの? 体育館裏の、向こう側に?」


「おそらく」


「……近いじゃん」


 陽菜の声が、少しだけ震えていた。


 近い。


 でも、届かない。


 壁一枚向こうに、ちひろがいる。それは——どれだけもどかしいことか。


「踏み込んでみる」


 俺は言った。


「今日か」


「今日だ。地図も揃った。場所もわかった。ここで引き返す理由がない」


 一ノ瀬は頷いた。陽菜は、少しだけ顔をこわばらせたが、「わかった」と言った。


――


 境界の最も薄い地点。


 地図の計算では、倉庫エリアの南端にある古い金属フェンスの手前だ。


 三人で、その場所に立った。


 フェンスの向こうは、ただの空き地のように見える。草が生えている。遠くに古い建物の外壁。


 でも——空気の密度が、明らかに違う。


 視界の端が、すでに少しだけ白い。


「一歩ずつ進む。俺が先に入る。お前たちはここで待て」


「え、一人で行くの?」


「最初は一人だ。何かあったときの退路を確保するために、二人はここに残れ」


 陽菜が、俺の袖を軽く掴んだ。


「……ちゃんと戻ってきてね」


「戻る」


 俺はスマホでコードを起動した。


 解析モード。この場所の変数を読み取りながら、一歩ずつ踏み込む。


 一歩。


 足が重い。空気が、水の中みたいに抵抗する。


 もう一歩。


 視界の端が、さらに白くなる。耳の奥で、低い音が鳴り始めた。


 もう一歩——


 コードが、この場所のデータを拾い始めた。


 数値が流れる。これまで見たことのない数字の羅列。極めて高密度な情報が、この地点に集中している。


 俺はその数値の中に、見覚えのあるパターンを見つけた。


 653。


 何度も、繰り返されている。


 ここだ。


 ちひろが近づいてきた座標と、完全に一致する。


 俺はもう一歩、踏み込んだ。


 その瞬間。


 視界が、一瞬だけ——変わった。


 白い霧のような空間。数字が、光の粒のように漂っている。


 そして。


 遠く。


 輪郭だけが見える、人の影。


 横たわっているような、座っているような。


 はっきりとは見えない。でも確かに、そこにある。


「……っ」


 俺は、足を止めた。


 心臓が、強く打った。


 あれは——


 瞬きをした。


 視界が、元に戻った。


 普通の空き地。草。古い外壁。


 俺は一歩、後ろへ引いた。


 振り返ると、フェンスの手前で一ノ瀬と陽菜が俺を見ていた。


「……見えたか?」


 一ノ瀬が聞いた。


「ああ」


「何が見えた」


 俺は、一拍置いた。


「人の影。横たわっているような……そういう輪郭が、向こうにあった」


 陽菜が、小さく息を吸った。


 一ノ瀬は、無表情のまま頷いた。でも、その手が——スマホを握ったまま、わずかに震えていた。


「……ちひろが、あの向こうにいる」


 俺は言った。


 誰も、否定しなかった。


 夕暮れが、空を赤く染めていた。


 古い倉庫の影が長く伸びていた。


 ちひろは、ここにいる。


 壁一枚向こうに。


 光の粒が漂う、数字の海の向こうに。


 まだ、届いていない。


 でも——もう、すぐそこにいる。

お読みいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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