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1-19「一ノ瀬は、なぜ泣かないのか。」

夜九時。


 体育館裏。


 三人が、揃った。


 風がない夜だった。木の葉が、まったく動いていない。遠くの国道から、低い車の音が聞こえる。それ以外は、静かだ。


「準備はいいか」


 一ノ瀬が、スマホの画面を確認しながら言った。


「ああ」


「私も」


 俺はコードを起動した。


 これまで何度もやってきた手順。でも今夜は違う。今夜は、「受け取る」ためじゃなく「届ける」ために干渉する。


 一ノ瀬が、送信コードを走らせた。


 数秒の処理。


 壁が、わずかに揺れた。


 いつもの「囁き」とは、質が違う。もっと深く、もっと遠くへ向かっているような感覚。


「……送れた」


 一ノ瀬が、静かに言った。


「受信されたかどうかは、まだわからない」


「どのくらい待てばいい」


「わからない。でも——何かあれば、この場所に反応が出るはずだ」


 三人で、壁を見つめた。


 一分。


 二分。


 三分。


 何も起きなかった。


 壁は、ただの暗いコンクリートのままだった。


「今夜は、無理かもしれない」


 一ノ瀬が言った。その声に、落胆が混ざっていた。意図して隠しているが、俺には聞こえた。


「届いてないのか」


「届いている可能性はある。ただ——返答に時間がかかっているのかもしれない。あるいは、届いた信号をちひろが処理するのに時間がかかっているか」


「もう少し待つか」


「……いや、今夜は引き上げよう」


 一ノ瀬は、スマホを閉じた。


 陽菜が、壁を見たまま言った。


「……ちひろ、ちゃんと受け取ったよね、きっと」


 誰も答えなかった。


 でも、否定もしなかった。


――


 帰り道。


 三人で駅へ向かっていた。


 陽菜がコンビニに寄りたいと言い、一人で入っていった。


 俺と一ノ瀬が、入口の前で待つ。


 街灯の下。夜の住宅街。


 一ノ瀬は、何も言わなかった。


 俺も、しばらく何も言わなかった。


 でも——一ノ瀬の様子が、さっきからおかしい。


 言葉の数が少ない。それはいつものことだ。


 でも今夜は、その「少なさ」の質が違う。


 言わないんじゃなくて、言えない。


 そういう種類の沈黙だ。


「一ノ瀬」


「なんだ」


「送信が終わったあと、お前……少し固まってたな」


 一ノ瀬は答えなかった。


「話せるか」


「……話すことはない」


「嘘つくな」


 一ノ瀬が、俺を見た。


 無表情だった。いつも通りの、感情が読めない顔。


 でも、目の奥に——何かが揺れていた。


「お前は、ちひろが好きだったんだろ」


 直接、聞いた。


 一ノ瀬は、否定しなかった。


 長い沈黙があった。


 風が、ようやく少しだけ動いた。


「……好きという言葉が、正確かどうかわからない」


 一ノ瀬が、静かに言った。


「でも——消えた瞬間から、俺の世界は止まっている」


 その一言が、夜の空気の中に溶けていった。


 俺は何も言えなかった。


 「止まっている」。


 一ノ瀬は今も、ちひろが消えたあの日の場所に立ったままなんだ。


 世界の歪みを記録し続けて、外部との通信を試みて、何度も失敗して。それでも記録をやめなかったのは——ただ、ちひろが戻ってくることを待ち続けていたからだ。


「一ノ瀬」


「なんだ」


「泣かないのか」


 一ノ瀬は少し間を置いた。


「……泣くことに、意味があるとは思えない」


「意味がなくても、泣くことはある」


「俺には、ない」


「本当に?」


 また、沈黙が落ちた。


 一ノ瀬は前を向いたまま、動かなかった。


 でも——声が、わずかに割れた。


「……泣いたら、止まれなくなる気がする」


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。


 俺は何も言わなかった。


 ただ、隣に立っていた。


 一ノ瀬も、何も言わなかった。


 でも、立ち去らなかった。


 二人で、街灯の下に並んでいた。


――


 コンビニから陽菜が出てきた。


 手にアイスを二本持っていた。


「二人分買ってきた! チョコといちご、どっちがいい?」


 俺は一ノ瀬を見た。


 一ノ瀬は、元の無表情に戻っていた。


「……いらない」


「また即答する」


「本当にいらない」


「じゃあちーちゃんは?」


「チョコでいい」


「はい」


 陽菜がアイスを渡してきた。


 三人で歩き始めた。


 陽菜がアイスを食べながら、俺に小声で聞いてきた。


「……なんか、一ノ瀬くん、いつもより静かじゃない?」


「そうか?」


「うん。なんか……目が、ちょっと違う気がする」


 陽菜の観察眼は、やはり鋭い。


「気のせいじゃないか」


「……そっか」


 陽菜は、それ以上聞かなかった。


 でも、一ノ瀬の少し後ろを歩きながら、その背中をちらりと見た。


 何かを知っているような顔をして。


 何かを知らないふりをしているような顔をして。


 どちらでもあるような、陽菜らしい顔だった。


――


 家に帰り、部屋に戻った。


 俺はスマホを確認した。


 一ノ瀬からメッセージが来ていた。


【一ノ瀬:今夜の送信は失敗じゃない。届いているはずだ。俺はそう思っている】


 俺はしばらく、その文章を見つめた。


 一ノ瀬が「思っている」と言うのは、珍しい。いつも「判断」か「事実」しか言わない一ノ瀬が、「思っている」という感情を込めた言葉を使った。


 俺は返信を打った。


【俺:そうだ。届いてる。必ず】


 送信して、スマホを置いた。


 窓の外を見る。


 夜空。星。


 ちひろ、聞こえたか。


 俺たちが「聞こえてる」と言ったこと。


 届いていてくれ。


 必ず、届いていてくれ。


 ベッドに横になった。


 天井を見上げながら、今日のことを反芻した。


 一ノ瀬の「世界が止まっている」という言葉。


 泣いたら止まれなくなる気がする、という声。


 その声が、今も耳の奥に残っている。


 一ノ瀬は、強い。


 でも、ちひろのことだけは——強くいられない。


 俺は目を閉じた。


 明日も、続く。


 やることはまだある。


 でも今夜は、ここまでだ。

体調不良のためお休みしてしまいました。

また今日からよろしくお願いいたします。

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