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1-18「物理定数が、1%ズレたら。」

ちひろの声を聞いた翌朝、世界の見え方が変わった気がした。


 正確には、何も変わっていない。


 廊下の壁は昨日と同じ解像度だ。蛍光灯の光も、床のタイルの目地も、何一つ変わっていない。


 でも——俺の「見方」が変わった。


 あの声を聞いてから、この世界のすべてが「ちひろが作ったもの」に見える。


 壁も、光も、廊下を歩く生徒たちも。


 誰かが、丁寧に作った世界。


 そう思うと、不思議と——腹が立たなくなった。


 この世界に閉じ込められているという感覚が、薄くなった。


 代わりに浮かんできたのは、もっと根本的な問いだった。


 なぜ、こんなにも完璧に作られているのか。


――


 一限目は化学だった。


 教師が板書する。元素の周期表。原子の構造。電子軌道。


 俺は板書を写しながら、ずっと別のことを考えていた。


 微細構造定数。


 それは、宇宙を支配する物理定数の一つだ。電磁気力の強さを決める、約137分の1という値。


 この値が、もし1%でもズレていたら——電子が原子核に落ち込んでしまい、安定した原子が存在できなくなる。炭素が生まれない。星が形成されない。生命が生まれない。


 逆に言えば、この宇宙はその値が「ちょうどよく」設定されているから、今ここに俺が存在できている。


 偶然にしては、できすぎている。


 エンジニアとして考えれば——これは「誰かが設定した値」だ。


 プログラムのパラメータを、ゲームが成立するように調整する作業。それと同じことが、この宇宙の物理定数に施されている。


「……これは偶然じゃない」


 思わず、声に出してしまった。


 隣の席の生徒が、チラリと俺を見た。


 化学の授業中だった。危なかった。


「ちーちゃん? なんか言った?」


 陽菜が、小声で聞いてきた。


「なんでもない」


「なんか怖い顔してた」


「考えてただけだ」


「何を?」


「宇宙のことを」


「授業中に宇宙……」


 陽菜は「ウケる」と口の形だけで言って、前を向いた。


――


 昼休み。


 三人で集まった。一ノ瀬が送信コードの最終調整を続けている。明日、実行する予定だ。


「一ノ瀬、一つ聞いていいか」


「なんだ」


「ちひろが消える前、何か言っていたか。この世界の『設計』について」


 一ノ瀬は手を止めた。


 少しだけ、考えるような間があった。


「……一度だけ言っていた」


「何と」


「『この世界は、誰かへの贈り物みたいだ』と」


 俺は、息を止めた。


 贈り物。


「文脈は?」


「物理定数の話をしていたときだ。微細構造定数が完璧にバランスしていることを発見して——ちひろは『これは偶然じゃない。誰かが誰かのために、ちゃんと生きられるように作った世界だと思う』と言った」


 俺の胸の中で、何かが静かに動いた。


 ちひろは、この世界を「閉じ込められた場所」として見ていなかった。


 誰かが誰かのために作った、贈り物として見ていた。


「……ちひろが、そう言ったのか」


「ああ」


 陽菜が、俺たちの会話を聞いていた。


「贈り物って、誰から誰への?」


「それは、わからない」


 一ノ瀬が答えた。


「ちひろも、そこまではわからないと言っていた」


「じゃあ、神様みたいな存在から、私たちへってこと?」


「そういう解釈もできる」


「え、じゃあ神様いるじゃん」


「そういう話じゃない」


「でも誰かが作ったんでしょ? 作った人が神様じゃないの?」


「……設計者と神様は、必ずしも同じではない」


「どう違うの」


「神様は全知全能だが、設計者はそうじゃない場合がある。バグが生まれるのは、設計が完璧じゃないからだ」


 陽菜は少し考えてから、「なるほど」と言った。


「じゃあこの世界のバグは、神様のミスじゃなくて設計者のミスってこと?」


「あるいは、意図的な『余白』かもしれない」


「余白?」


「贈り物には、余白が必要なこともある。受け取った人が、自分で埋めていけるように」


 一ノ瀬の言葉が、静かに落ちた。


 陽菜が、その言葉をしばらく噛み締めるように黙っていた。


「……なんかそれ、すごくいい話じゃん」


 それだけ言って、パンを食べ始めた。


 俺は一ノ瀬を見た。


 一ノ瀬は、視線を手元のノートに戻していた。


 でもその耳が、わずかに赤かった。


 (こいつ、照れてるのか)


 四十三年の人生で磨かれた観察眼が、確かにそれを捉えた。


 言わなかったが。


――


 放課後、一ノ瀬が言った。


「送信コードが完成した」


「もう? 明日じゃなかったのか」


「今日の昼に終わった。明日を待つ理由がない」


「……今日、送るのか」


「お前たちが承諾するなら」


 俺は陽菜を見た。


 陽菜は「うん」と頷いた。迷いがなかった。


「じゃあ今夜だ」


 一ノ瀬が頷いた。


「場所はどこがいい」


「体育館裏」


 俺は即答した。


「ちひろが近づいてきた場所だ。そこから送る方が、届きやすいかもしれない」


「……合理的だ」


「夜の九時に集合できるか」


「できる」


「私も」


 三人の答えが、揃った。


――


 夕方、一度家に帰った。


 「お母さん」が夕食を作っていた。今日は肉じゃがだった。匂いが、廊下まで漂ってくる。


「ちひろ、今日も遅かったのね」


「ちょっと、やることがあって」


「ご飯、食べてく?」


「食べる」


 俺はテーブルに着いて、肉じゃがを食べた。


 うまい。


 この「お母さん」が誰なのか、俺にはまだわからない。ちひろが無意識に作り出した存在なのか、それとも別の何かなのか。


 でも今夜、この食卓は確かに温かかった。


「なんか、最近元気そうね」


 「お母さん」が言った。


「……そうか」


「うん。目に力がある感じ。なんかいいことあった?」


 俺は少しだけ考えた。


「……わかった、ことがある」


「何が?」


「この世界に、贈り物が隠れてるかもしれないって」


 「お母さん」は少し不思議そうな顔をしたが、「そう」と言って微笑んだ。


 その笑顔が、やけに自然だった。


――


 夜。


 俺はメモ帳を開いた。


「私を探して」という文字を、もう一度見る。


 贈り物。


 ちひろはこの世界を、誰かからの贈り物と捉えていた。


 だとしたら——ちひろ自身は、誰かへの贈り物を用意しようとしていたのかもしれない。


 653のメッセージ。音声データ。「聞こえる?」という問いかけ。


 それは全部、誰かに届けようとした贈り物だ。


 俺はスマホを確認した。


 夜九時まで、あと一時間。


 「お母さん」の肉じゃがの温かさが、まだ胃の中にある。


 今夜、返事を送る。


 ちひろ、もう少しだけ待っていてくれ。


 俺たちは、そっちに向かっている。

お読みいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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