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1-17「ちひろの声が、聞こえた気がした。」

昨夜から、手が止まらなかった。


 ノートに書き写した数列を、何度も眺めた。653が九回。その前後の数字が、毎回少しずつ違う。


 言語的な構造。


 エンジニアとして二十年近く、コードを書いてきた。コードにも言語がある。文法がある。同じ「単語」が違う文脈に置かれると、意味が変わる。


 ちひろは、そういう構造でメッセージを作っていた。


 だとしたら——解読できる。


 時間はかかる。でも、できないことじゃない。


 朝、目が覚めたとき、すでにノートを手に持っていた。


 寝落ちしていたらしい。首が少し痛い。


 スマホを見ると、五時四十分だった。


 眠れなかったわけじゃない。ただ、ノートを見ながら考えていたら、いつの間にか朝になっていた。


 そういうことが、エンジニア時代にも何度かあった。締め切り前夜、バグが取れなくて、気づいたら夜が明けていた。あのときと、同じ感覚だ。


 違うのは——今回の「バグ」の向こうに、ちひろがいるということだけだ。


――


 一限目から三限目まで、俺はほぼ上の空だった。


 授業を聞きながら、頭の中ではずっと数列を回している。


「ちーちゃん、大丈夫?」


 昼休み、陽菜が俺の顔を覗き込んだ。


「目、赤いよ。昨日あんまり寝てないでしょ」


「少し考えてた」


「数字のこと?」


「ああ」


 陽菜は少し考えてから、自分のカバンからポーチを取り出した。


「目薬、さす?」


「……なんで持ってるんだ」


「コンタクトだから。ほら」


 俺は四十三年の人生で他人に目薬を差してもらったことがない。だがここで断ると陽菜が長引かせることは、この数週間で十分学習した。


 大人しく受け取って、自分でさした。


「ありがと」


「どういたしまして」


 陽菜が満足そうに笑った。


「一ノ瀬くんは昨日から図書室にこもりっきりらしいよ」


「もう始めてるのか」


「うん。朝、廊下ですれ違ったら『午後に来い』って言われた」


 一ノ瀬らしい。無駄がない。


――


 午後、三人で図書室に集まった。


 一ノ瀬はすでに、机の上に大量のメモを広げていた。


「進んでるな」


「照合は七割終わった」


「何がわかった」


 一ノ瀬は最も上のメモを指で示した。


「まず、この数列は『音声データ』として解釈できる可能性がある」


 俺は息を止めた。


「音声データ」


「ああ。653という数字が持つ周波数パターンを、音波の周期として読み直すと——声の波形に近い構造が出てくる。ちひろは、この世界の数列の中に音声を埋め込んでいた可能性がある」


 それは——天才的な発想だ、と思った。


 この世界の物理定数の中に存在する数列。誰も気づかないような場所に埋め込まれた、極めて低品質な音声データ。それを取り出すには、まず数列の存在に気づいて、次に言語的な構造を見抜いて、そして音声として解釈するという、複数のステップが必要になる。


 ちひろは、それを知っていて、やった。


「変換できるか」


「試してみる」


 一ノ瀬はノートパソコンを開いた。昨夜から準備していたらしい、変換用のプログラムが起動している。


 数列を入力する。変換を実行する。


 処理が走る。


 プログレスバーが、ゆっくりと進む。


 陽菜が「どきどきする」と小声で言った。俺も同じだった。


 処理が完了した。


 一ノ瀬がイヤホンを接続し、再生ボタンを押した。


 ノイズ。雑音。砂嵐みたいな音。


 その中に——何かが混ざっている。


「フィルタリングをかける」


 一ノ瀬の指がキーボードを叩く。ノイズが、少しずつ削られていく。


 何度も、繰り返す。


 五回目のフィルタリングが終わった瞬間。


 声が、浮かび上がった。


「……き……こえ……る?」


 俺は、動けなかった。


「まだ……ここに……いる」


 女の子の声だった。


 細くて、遠くて、ノイズの向こうから届いているみたいな声。でも、確かに言葉になっていた。


「……き……こえ……る? まだ……ここに……いる」


 再生が、終わった。


 図書室に、静寂が戻った。


 一ノ瀬が、口を開いた。


「ちひろの声だ」


 静かに、でも確実に言った。


「聞き間違いじゃない。俺は知ってる」


 その一言が、空気の中に沈んでいった。


 俺は何も言えなかった。


 言葉を探したが、見つからなかった。


 陽菜が、小さく口を開いた。


「ちひろ……ちゃんと、生きてるじゃん」


 笑おうとした。


 いつもの陽菜なら、こういうとき笑う。明るく笑って、空気を変える。


 でも、笑えなかった。


 口の端が上がりかけて、止まった。


 目から、何かがこぼれそうになった。


「よかった」


 それだけ言って、俯いた。


 机の上を見つめたまま、動かなかった。


 俺は、何も言わなかった。


 一ノ瀬も、何も言わなかった。


 でも、誰も何も言わなくても、それでよかった気がした。


 ちひろが、まだいる。


 その事実だけが、今この部屋に満ちていた。


――


 しばらくして、陽菜が顔を上げた。


 目が少し赤かったが、声は普通に戻っていた。


「……で、次はどうするの」


「返信を送る」


 俺は言った。


「ちひろがこっちを呼んでいる。だったら、俺たちが届いたことを知らせる必要がある」


「どうやって」


「逆引きアクセスだ。653のアドレスを使って、ちひろがいる座標に向けて信号を送る。一ノ瀬が設計している方法だ」


 一ノ瀬が頷いた。


「送信コードの設計は、あと二日で完成する」


「二日後に試せるか」


「ああ」


 俺たちは三人で、同じ方向を向いていた。


 陽菜が、また俺を見た。


「ちひろに、なんて言うつもり?」


 俺は少し考えた。


「聞こえてる、と言う」


 それだけだ。


 最初の返信は、それで十分だと思った。


 ちひろが「聞こえる?」と問いかけてきた。


 だから俺たちは「聞こえてる」と返す。


 それだけが、今できる最善だ。


 陽菜は俺の答えを聞いて、少しだけ笑った。


 今度は、ちゃんと笑えた。


「……うん。それがいいと思う」


 夕日が、図書室の窓から差し込んでいた。


 本棚の背表紙を、オレンジ色に染めながら。


 俺は窓の外を見た。


 ちひろ、聞こえてる。


 もう少しだけ待っていてくれ。


 返事を、送る。

第一章もクライマックスが近づいてきました。

次回もお楽しみに。

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