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1-16「お化け屋敷の中の、本物のバグ」

 翌日の放課後、一ノ瀬は古いボイスレコーダーを持ってきた。


「学校の視聴覚室から借りた」


「借りたって、誰に許可を取った」


「視聴覚準備室の先生に、文化祭の記録用だと言って」


「噓ついたのか」


「目的は記録だ。文化祭の、ではないが」


 屁理屈だが、否定できない屁理屈だった。


 俺はスマホで解析コードを準備しながら、一ノ瀬のボイスレコーダーを見た。


 古い型だが、ノイズフィルタリング機能はついている。これなら、昨夜聞こえたあの音をもう少し鮮明に拾えるかもしれない。


「陽菜は来るのか」


「もちろん来るよ」


 答えたのは陽菜本人だった。教室の入口から、鞄を肩にかけて立っている。


「怖いって言ってたじゃないか」


「怖いのと来ないのは別の話。私だって知りたいもん」


 陽菜は俺たちの席まで来て、堂々と言い切った。


 四十三年の人生で見てきた「強さ」の種類の中に、こういう種類のものはなかった気がする。


――


 日が暮れるまで少し時間があったので、購買に寄ることになった。


「ちーちゃん、何にする?」


 陽菜が、パンの並んだ棚を見ながら聞いた。


「いらない」


「いる。怖い場所に行くのにお腹空いてたら集中できないでしょ」


「お前が心配してるのは俺の集中力じゃなくてお前の心の支えだろ」


「両方だよ」


 陽菜は迷わずチョコパンを二つ手に取って、一つを俺に押しつけた。


「一ノ瀬くんは?」


「いらない」


「即答すんな」


 陽菜が、半ば強引に一ノ瀬の手にもう一つのパンを握らせた。


「夜の体育館裏で、解析する係と録音する係と、お腹空かせてる係に分かれるのおかしいから」


「お腹空かせてる係は誰だ」


「私」


 堂々と言われると、反論する気力が失せる。


 俺はチョコパンの袋を開けながら、一ノ瀬を見た。


 一ノ瀬は受け取ったパンを、結局おとなしく食べていた。


 断ると陽菜が長引かせることを、もう学習しているらしい。


――


 日が暮れるのを待って、三人で体育館裏へ向かった。


 昨日と同じ場所。昨日と同じ静けさ。


 一ノ瀬がボイスレコーダーを構えた。俺はスマホでコードを起動する。


「準備はいいか」


「いつでも」


「……うん」


 陽菜の声が、少しだけ強張っていた。


 俺はコードを走らせた。


 昨日と同じ手順。囁くように、システムへ干渉する。空気密度。光の減衰率。この場所の局所的な変数に、極めて小さな揺らぎを与える。


 壁の質感が、揺れた。


 一回目より、はっきり見えた。


「録ってる」


 一ノ瀬が小声で言った。ボイスレコーダーの赤いランプが点いている。


 壁の向こうから、何かが聞こえ始めた。


 昨日と同じ、ノイズ混じりの音。


 でも今日は、もう少し続いた。


 俺はコードの強度を、わずかに上げた。リスクはある。強くしすぎればエージェントに気づかれる。だが、これくらいなら——


 壁に、文字が浮かんだ。


 俺は息を止めた。


 光るような、薄い文字。数字の羅列。


 「653」が、何度も繰り返されている。その間に、別の数字が挟まっている。


 俺はスマホのカメラで、その文字列を撮影した。


 数秒後、文字は消えた。壁は元の暗いコンクリートに戻った。


「……今の、撮れたか」


「ああ」


 俺は撮影した画像を確認した。


 ぼやけているが、確かに記録できている。


 長い数列。653のパターンが、何度も埋め込まれている。これまで見た「呼びかけ」のパターンより、ずっと長い。


「これ……」


 一ノ瀬がボイスレコーダーを止め、再生した。


 ノイズ。雑音。その中に、何かの音が混ざっている。


 一度目では聞き取れなかった。だが、ノイズフィルタリング機能を使うと——わずかに、声らしきものの輪郭が浮き上がった。


「……き……て……」


 はっきりとは聞こえない。だが、何かを言っている。


「もう一回」


 一ノ瀬が、もう一度再生した。


 俺たちは三人とも、息を止めて聞いた。


「……き……て……ほし……」


「『来てほしい』、か?」


 俺は言った。


「あるいは、『聞いてほしい』」


 一ノ瀬が言った。


 どちらが正しいかは、まだわからない。でも、どちらにしても——


 これは、誰かへのメッセージだ。


「ちひろ」


 俺は壁に向かって、思わず呟いた。


 返事は、なかった。


 夜風が、木の葉を揺らした。


――


 その夜、俺は撮影した数列をノートに書き写した。


 長い数字の羅列。653のパターンが、九回繰り返されている。これまで見た中で、最も長く、最も複雑なメッセージだ。


 俺はそれを、これまで集めたデータと比較した。


 円周率の中の653。物理定数の中の653。アドレス数列の中の653。


 全部と照合する。


 すると——


 規則性が見えてきた。


 単なる繰り返しじゃない。653の前後の数字が、毎回少しずつ違う。それはまるで——同じ「単語」を、違う「文脈」で使っているみたいに。


 言語だ。


 これは、座標でも単純な信号でもない。


 言語的な構造を持った、メッセージだ。


 俺はノートを見つめながら、息を吐いた。


 ちひろは、ただ「ここにいる」と知らせようとしていたんじゃない。


 もっと複雑な、何かを伝えようとしていた。


 俺はスマホを取り出し、撮影した画像を一ノ瀬に送った。


【俺:この数列、単純な信号じゃない。言語的な構造がある】


 すぐに返信が来た。


【一ノ瀬:俺も同じことを考えていた。明日、図書室で照合作業をしよう】


 俺は頷いて、ノートを閉じた。


 窓の外を見る。


 夜空。星。


 ちひろは、何を伝えようとしているんだろう。


 単純な「私を探して」以上の、もっと長く複雑な、何か。


 俺はメモ帳を取り出し、もう一度その文字を見た。


「もし、私じゃない誰かがここにいるなら、お願い。私を探して」


 この一文の裏に、もっと多くの言葉が隠れているのかもしれない。


 俺たちはまだ、その全部を読み取れていない。


 でも今夜、確かに一歩進んだ。


 ちひろの声が、初めて——形を持って届いた。


 完全じゃない。断片的で、ノイズだらけで、意味もまだわからない。


 でも、確かに届いた。


 俺はその事実だけを抱えて、夜を過ごした。


お読みいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

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