1-13「本番は優しくない」
チュートリアルが完了した翌朝。
目が覚めた瞬間から、何かが違った。
いつもと同じ天井。いつもと同じ朝の光。スマホのアラームが鳴る。それだけのことなのに——空気の「重さ」が、昨日までと違う。
システムが、モードを切り替えた。
俺はベッドから起き上がり、窓の外を見た。
普通の朝だ。電線。隣の家の屋根。遠くのコンビニの看板。どこにも異常はない。
でも、俺のエンジニアとしての直感が言っている。
穏やかな見た目の裏で、何かが動き始めている。
スマホが震えた。
【陽菜:おはよ! 昨日楽しかったね! 今日もよろしく!】
陽菜のLINEが、その緊張感を一瞬だけ溶かした。
……こいつの存在は、ある意味どんな解析コードより効果的だ。
――
一限目が始まる前、俺は廊下で一ノ瀬を捕まえた。
「昨日、話があると言っていた」
「ああ」
一ノ瀬は周囲を確認してから、声を落とした。
「世界の端の向こうを覗く方法について、仮説がある」
「聞かせてくれ」
「単純な話だ。俺たちはこれまで、世界の内側から外を見ようとしてきた。でも——」
一ノ瀬は廊下の窓を見た。
「内側から外を見るには、壁を越えなければならない。壁を越えようとすれば、システムに検知される」
「ああ」
「だとしたら、逆の発想だ。外から内に向けて、信号を送ってもらう」
俺は息を止めた。
「……ちひろに、こちらから呼びかける。ということか」
「正確には、ちひろがいる場所の『座標』に向けて、アクセスキーを送る。653のアドレス数列を逆引きして、向こうから接続してもらう形にする」
逆引き。
エンジニアとして、その発想の意味はすぐにわかった。これまでは「こちらからアクセスしようとして弾かれていた」。でも向こうから接続してもらえれば、システムは「外部への侵入」ではなく「内部への着信」として処理する。エージェントが動く基準が、変わる。
「……理論上は、いける」
「ああ。ただし問題が一つある」
「なんだ」
「ちひろが今も、あの座標から信号を発信し続けているかどうか、わからない。向こうに届かなければ、何も起きない」
沈黙が落ちた。
廊下の向こうで、チャイムが鳴った。
「やってみる価値はある」
俺は言った。
「準備に時間がかかる。データの整理と、送信コードの設計が必要だ」
「わかった。並行して進める」
一ノ瀬は頷いた。それだけだった。
でも今日の一ノ瀬の目には、昨日までと違う何かがあった。
チュートリアルが終わった。本番が始まった。一ノ瀬もそれを感じている。
――
登校中に、それは起きた。
駅から学校への道。住宅街の細い路地。
陽菜が「近道だよ」と言って曲がった路地。人通りが少ない。建物の影が長い。
俺は曲がった瞬間、足を止めた。
路地の奥に、人影があった。
生活指導の教師。
のっぺらぼう。
今日は昨日と違う。立っているだけで、空気が歪んでいる。周囲の壁のテクスチャが、奴の周囲だけ崩れかけている。まるでシステムが奴のためにリソースを割いているみたいに。
「ちーちゃん? どうしたの、止まって」
陽菜が振り返った。
俺は咄嗟に陽菜の腕を掴んだ。
「別の道を行く」
「え、なんで。近道なのに」
「いいから」
俺は陽菜を引いて、路地を出た。
背後で、足音がした。
一歩。
二歩。
規則正しい、メトロノームみたいな足音。
人間の歩き方じゃない。
俺たちは角を曲がり、大通りに出た。人が多い。観測者がいる。足音が、止まった。
振り返らなかった。でも、止まったことはわかった。
「……なんか、いたの?」
陽菜が、低い声で聞いた。
「ああ」
「のっぺらぼう?」
「そうだ」
「……動きが、前と違う感じがした。気のせいじゃないよね」
陽菜の観察眼は鋭い。路地から一瞬しか見えていないはずなのに、すでに「変化」を感知している。
「気のせいじゃない。アップデートされてる」
「アップデート」
「チュートリアルが終わったから、システムが本気を出し始めた」
陽菜は少しの間、黙った。
それから、いつもの笑顔に戻った。でも目の奥は笑っていない。
「そっか。じゃあ気をつけないとね」
その一言の軽さが、かえって頼もしかった。
――
昼休み。
一ノ瀬に今朝の遭遇を報告した。
「想定の範囲内だ」
一ノ瀬は自分のノートに何かを書き込みながら言った。
「チュートリアル完了後のエージェントの動きを、俺はずっと記録してきた。過去のデータと照合すると——完了後の二十四時間以内に、必ず一度、新しい行動パターンを見せる」
「テストか」
「そう解釈している。システムが『異物』の反応を確認する。俺たちがどう動くかを見ている」
「だとしたら、今朝俺が路地を引き返したことも」
「記録されている可能性がある。ああ」
俺は息を吐いた。
どこまでも、監視されている。
「一ノ瀬。お前は今まで、こういう状況を一人で耐えてきたのか」
一ノ瀬はペンを止めた。
「……慣れた」
「慣れたって言うな」
一ノ瀬が、俺を見た。
「チュートリアルが終わってから、奴らの動きが変わった。それはお前にとっても同じだ。一人じゃない」
一ノ瀬はしばらく俺を見ていた。
それから、また前を向いた。
「……わかった」
それだけだった。
でもペンを動かす手が、少しだけ落ち着いた気がした。
――
放課後。
一ノ瀬は送信コードの設計に取り掛かると言って、図書室へ向かった。
俺と陽菜は、二人で帰り道を歩いた。
「ねえ」
陽菜が、歩きながら言った。
「今朝、怖かった?」
俺は少し考えた。
「……怖くはない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「怖くないって言う人の顔じゃなかったよ、あの時」
四十三年の処世術を持っていても、陽菜の観察眼には勝てない。
「……少し、驚いた」
「それが怖いってことじゃん」
「微妙に違う」
「どう違うの」
「怖いのは、未知のものに対する反応だ。俺が感じたのは——想定より速くなっているという、確認だ」
陽菜はしばらく黙った。
それから、歩きながら俺の手首をそっと握った。
一瞬だけ。
「……嘘つき」
それだけ言って、離した。
俺は何も言えなかった。
陽菜の「嘘つき」は、責めているんじゃない。
ちゃんとわかってる、と言っている。
それだけで、十分だった。
――
夜、俺はノートを開いた。
今日一日で変わったことを書き出す。
エージェントがアップデートされた。一ノ瀬が「逆引きアクセス」の仮説を提示した。ちひろへの送信コードの設計が始まった。
チュートリアルが終わった。
本番は、本当に始まった。
俺はペンを置いて、窓の外を見た。
夜空。星。
今夜はいつもより少しだけ、遠く感じた。
システムが本気を出し始めている。
でも、俺たちも本気を出す。
三人で。
それだけが、今夜の答えだった。
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