1-12「《チュートリアル:3/3》」
文化祭当日の朝は、いつもと空気が違った。
教室に入った瞬間からわかる。声が多い。笑いが多い。廊下を行き交う生徒の数が、普段の倍以上ある。
観測者が、多い。
俺はそれを肌で感じながら、教室の窓から外を見た。
校庭に設置されたテントの列。装飾された看板。早くも来場し始めた他校の生徒たち。
世界の「解像度」が、いつもより高い。
壁の質感が細かい。床のタイルの目地がくっきりしている。窓ガラスの向こうの景色が、妙に鮮明だ。これだけの観測者が集まると、システムは処理を省けない。全部をちゃんと描画しなければならない。
神は、観測者がいる時だけ真面目に計算する。
今日は、神が一番真面目に働く日だ。
「ちーちゃん! 来て来て! 衣装!」
陽菜が飛んできた。
手に持っているのは、白いワンピースと、安っぽいプラスチックの鎖だった。
「……これが衣装か」
「可愛いでしょ! 昨日百均で全部揃えた」
「百均」
「クオリティより気持ちが大事なの。ほら、着替えて」
四十三年の人生で培った「断る技術」の全てを総動員しようとした。
だが陽菜の「ほら」という一言の圧力は、それを上回った。
――
お化け屋敷の担当エリアに立った俺を見て、一ノ瀬が言った。
「……思ったより、似合っている」
「褒めるな」
「褒めていない。事実を言っただけだ」
「昨日も同じことを言った」
「昨日も事実だった」
白いワンピース。首に巻かれた鎖。陽菜が「雰囲気出る」と言って塗った、やや過剰な白いファンデーション。
鏡を見た瞬間、四十三歳の俺は完全に言葉を失った。
幽霊というより、どこかのアニメのキャラクターみたいだった。
「いい感じじゃん!」と陽菜は満足そうに言ったが、その「いい感じ」が何を指しているのかは最後まで謎だった。
お化け屋敷が始まると、来場者が次々と入ってくる。
暗幕で仕切られた通路。効果音。スタッフが仕掛けるちょっとした驚かし。
俺の役割は、通路の曲がり角で突然現れることだった。
最初の来場者グループが角を曲がった瞬間、俺は静かに立っていた。
「……っ、うわ」
一人が小さく声を上げた。
「え、なに、かわいい幽霊じゃん」
全員が笑った。
怖がる声が一つもなかった。
(俺は今、「かわいい幽霊」として機能している)
四十三年の人生で最も奇妙な職務だった。
その後も同じことが続いた。「かわいい」「なんか癒される」「写真撮っていい?」。恐怖どころか、癒しスポットになっていた。
一ノ瀬が通路の端で腕を組んで立っているのが見えた。表情はいつも通りだが、俺と目が合った瞬間、わずかに視線を外した。
……笑いをこらえているのかもしれない。
――
文化祭の中盤、来場者が一番多くなった時間帯。
俺はふと、気づいた。
何かが、変わっている。
空気の質が違う。光の屈折が、わずかにおかしい。音の反響が、普段の学校とは違うパターンを持っている。
これだけの「観測者」が同時に集まると——世界への負荷が、臨界に近づく。
俺はスマホをそっと取り出し、コードを確認した。
数値が流れる。
この校舎全体の「解像度パラメータ」が、今日だけ異常に高い。システムが、観測者の数に押されて、全力で描画している。
そして——その負荷の隙間に、何かが生まれかけている。
俺は通路を抜けて、窓際へ向かった。
外を見る。校庭に、人が溢れている。笑い声。音楽。屋台の匂い。これだけの「観測」が同時に起きている場所は、この世界でもほとんどないはずだ。
光が——一瞬だけ、変な屈折をした。
窓ガラスの向こうの景色が、コンマ数秒だけ「二重に」見えた。現実とその影が、ずれて重なるみたいに。
俺は息を止めた。
これは。
「おじさん」
一ノ瀬が隣に来ていた。
「……見えたか」
「ああ」
「光が、二重に見えた」
「解像度が臨界を超えた。システムが処理しきれなくて、一瞬だけレンダリングにズレが生じた」
一ノ瀬の声は静かだったが、目に力があった。
「文化祭はシステムへの過負荷実験になる。これだけの観測者を一箇所に集めれば、世界は無理をする。無理をした世界は——隙を見せる」
「隙」
「ちひろが気づいていたかもしれない。だから三十分、あの『端』に立っていたんじゃないか。大きな観測負荷がかかる日を待って」
俺は窓の外を見た。
笑っている人たち。走り回っている子供たち。写真を撮っている来場者たち。
誰も知らない。自分たちの「観測」が、世界のシステムに負荷をかけていることを。
その瞬間。
視界の端に、文字が浮かんだ。
《チュートリアル:3/3》
俺は動けなかった。
3。最後の数字。
次の瞬間——。
《チュートリアル完了》
世界の何かが、カチッと音を立てて切り替わった。
音ではない。でも、確かに「切り替わり」を感じた。まるでシステムが、あるモードから別のモードへと移行したみたいに。
空気が、一瞬だけ重くなった。
すぐに元に戻った。
でも、戻った「元」は、さっきと同じではなかった気がした。
「……今、何かが変わった」
俺は呟いた。
「ああ」
一ノ瀬も感じていた。
「チュートリアルが終わった。ということは」
「本番が、始まった」
二人が同時に言った。
廊下の向こうで、陽菜が「ちーちゃん! 幽霊サボってる!」と声を上げた。
俺は窓から離れた。
――
文化祭が終わったのは、夕方だった。
後片付け。暗幕を外す。テーブルを元に戻す。ゴミを集める。
陽菜が「疲れたー!」と言いながらも手を動かしている。一ノ瀬が無言で暗幕を畳んでいる。
俺はその光景を見ながら、今日一日を反芻していた。
「かわいい幽霊」として機能したこと。チュートリアルが完了したこと。世界が「本番」に切り替わったこと。
全部が、同じ一日に起きた。
後片付けが終わり、三人で校門を出た。
夕暮れが完全に終わり、夜が始まっている。
陽菜が大きく伸びをした。
「なんか今日、楽しかったね」
それは誰かに向けた言葉でも、答えを求める問いでもなかった。ただ、思ったことをそのまま口にした感じだった。
「……そうだな」
一ノ瀬が言った。
珍しかった。一ノ瀬が「楽しかった」という文脈に同意したのは、初めてかもしれない。
陽菜が一ノ瀬を見た。少し驚いた顔をして、それからにっこりした。
何も言わなかった。
その「何も言わない」が、今の陽菜には正解だった。
俺は空を見上げた。
星が出ている。
いつもより——少しだけ、鮮明に見えた。
チュートリアルが終わった。世界が本番を始めた。エージェントは動きを強める。一ノ瀬は「世界の端を覗く方法」を話すと言った。ちひろは、まだあの向こうにいる。
やることは、山積みだ。
でも今夜だけは。
三人で並んで、夜道を歩いている、この時間だけは。
「一ノ瀬」
「なんだ」
「話は、明日でいいか」
一ノ瀬は少し間を置いた。
「……ああ」
「今日は、今日のままにしたい」
一ノ瀬はまた黙った。
でも否定しなかった。
陽菜が「何の話?」と聞いてきた。
「なんでもない」
「また秘密にしてる」
「秘密じゃない。明日話す」
「ふーん」
陽菜はそれ以上聞かなかった。
三人の足音が、夜道に響く。
遠くの踏切の音。風が木を揺らす音。どこかの家から漏れる夕食の匂い。
この世界は、今夜も「普通の夜」を演じている。
でも俺は知っている。
明日から、世界は変わる。
チュートリアルが終わった。本番が始まった。
この三人で、それを迎える。
星が、いつもより鮮明に輝いていた。
本番は、優しくない。
でも——三人なら、たぶん大丈夫だ。
そう思えたのは、根拠のない話だ。
でも根拠のない確信というのは、時々、一番強い。
第一章前半最終話です。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この先のお話もお楽しみに。




