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1-11「光より早く走れない理由」

物理の授業は、二限目だった。


 教師が黒板に書く。


 「光速:約3×10⁸ m/s」


 「これがこの宇宙における、あらゆる情報伝達の上限速度です」


 俺はシャープペンシルを止めた。


 昨日の「世界の端」が、頭の中で蘇る。


 倉庫エリアの奥。視界が白くなる感覚。足が重くなる感覚。そしてコードが検知した、光の伝達速度のわずかな低下。


 この授業と、あの場所が——繋がった。


「光速を超えることができない理由は何でしょうか。佐藤さん」


 名前を呼ばれた。


 俺は顔を上げた。教師が、こちらを見ている。


「……物体が光速に近づくほど、質量が無限大に近づくからです。無限のエネルギーが必要になる」


「そうですね、正解です」


 教師は板書を続けた。


 正解だが、それは表の答えだ。


 俺の中では、別の答えが出ていた。


 光速を超えられないのは、このシステムの最大伝送速度が光速に設定されているからだ。情報がそれ以上速く動けないのは、処理能力の物理限界だからだ。相対性理論が教えることを「宇宙の法則」として習うが、それは「この世界の仕様書」を読んでいることと同じだ。


 窓の外を見た。


 青い空。白い雲。遠くのビルの輪郭。


 あの空の向こうも、十分遠ければ——光が遅くなり始める場所がある。世界の端が、ある。


「ねえ、ちーちゃん」


 隣から囁き声。


 陽菜だった。ノートに何かを書きながら、視線は前に向けたまま口だけを動かしている。


「なに」


「さっきの答え、なんか難しくなかった? 普通に『速すぎるから』でよくない?」


「それは答えになってない」


「でも伝わるじゃん」


「伝わらない」


「ちーちゃんって意外と頭いいよね」


「……授業に集中しろ」


「してるよ。ノート取ってるじゃん」


 俺は陽菜のノートを横目で見た。


 授業の内容は一行しか書いていなかった。残りのスペースには、お化け屋敷の小道具リストが書き込まれていた。


 (これが「ノートを取ってる」という認識らしい)


 四十三年の人生では到底たどり着けない境地だった。


――


 昼休み。


 陽菜に呼び止められたのは、教室を出ようとした瞬間だった。


「ちーちゃん、ちょっといい?」


 いつもより、声のトーンが少し低い。


 俺は廊下の隅に引っ張られた。


「なに」


「あのさ」


 陽菜は珍しく、言い出しにくそうに視線を外した。


「一ノ瀬くんって、どう思う?」


 四十三年分の処世術が、一斉に「これは地雷だ」と警報を鳴らした。


「……どう、とは」


「なんか、さ。最近一緒にいる時間増えたじゃん。委員会とか、放課後とか」


「ああ」


「でも、私のこと全然見てくれないんだよね」


 俺は慎重に言葉を選んだ。


「見てないわけじゃないと思うが」


「見てないよ。ちーちゃんのことはたまに見てるのに。私のことはほぼ見ない」


 それは——一ノ瀬が「ちひろを探している」という文脈で俺を見ているのであって、「藤田ちひろ」を見ているわけじゃないんだが、その説明を今するのは複雑すぎる。


「一ノ瀬は、もともと人をあまり見ないタイプだ」


「そういう問題じゃなくて」


「じゃあどういう問題だ」


 陽菜はしばらく黙った。


 それから、ぽつりと言った。


「……なんか、気になる。それだけ」


 俺は天井を見上げた。


 四十三歳のおじさんが、女子高生の身体で、女子高生の恋愛相談を受けている。


 このシュールさは、どの理論でも説明できない。


「陽菜」


「なに」


「一ノ瀬は、今いろいろ抱えてる。それだけは言える」


「抱えてる?」


「ああ。だから、今すぐ何かを求めるより、近くにいてやる方がいいと思う」


 陽菜は俺を見た。


「……ちーちゃん、なんかそういうこと言う時すごい大人っぽいよね」


「そうか」


「なんで?」


「……いろいろあった」


 陽菜は少し考えてから、「そっか」と言った。


 それ以上聞かなかった。


 陽菜の「聞かない優しさ」は、毎回俺の何かに触れる。


――


 放課後は文化祭の準備だった。


 体育館の倉庫から暗幕を運ぶ作業。重い。長い。運びにくい。


「一ノ瀬くん、そっち持って」


「……わかった」


「もう少し高く」


「これ以上は無理だ」


「え、なんで。背高いじゃん」


「高さの問題じゃない。長さの問題だ」


「じゃあ縦に持って」


「縦にしたら天井に当たる」


「あ、ほんとだ。じゃあ斜め」


「……」


 一ノ瀬が斜めに傾けた。暗幕の端が、陽菜の頭に当たった。


「いたっ」


「……すまない」


「謝るなら最初から言ってよ」


「言った」


「言ってない」


「言った。聞いていなかっただけだ」


 俺は反対側の端を持ちながら、この会話を黙って聞いていた。


 (これは……噛み合ってるのか、噛み合ってないのか)


 四十三年の経験では、判定が難しかった。


 ただ一つ言えるのは——一ノ瀬が「すまない」と言ったことだ。


 一ノ瀬が謝ることは、めったにない。


 陽菜の隣だと、一ノ瀬は少しだけ「ちゃんとした人間」になろうとする気がした。


「ちーちゃんは? 楽しい?」


 暗幕を運びながら、陽菜が聞いてきた。


「楽しい、とは」


「文化祭の準備。みんなでわちゃわちゃするの」


 俺は少し考えた。


 楽しいかどうか、正直わからない。二十年以上前に自分が高校生だった頃のことは遠すぎて思い出せない。でも今この瞬間——重い暗幕を三人で運びながら、陽菜が笑っていて、一ノ瀬が仏頂面で斜めに傾けていて——それが、なんとなく悪くない気がした。


「……悪くない」


「それって楽しいってことじゃん」


「そうかもしれない」


「素直じゃないな〜」


 陽菜がころころ笑った。


 一ノ瀬は何も言わなかった。でも口の端が、わずかに動いた。


 笑った、とは言えない。でも何かが動いた。


 俺はそれを見て、また何も言わなかった。


――


 準備が終わったのは、七時近かった。


 外はすっかり暗い。


 三人で校門を出た。陽菜が「お疲れ! また明日」と手を振って、先に駅へ向かった。


 残された俺と一ノ瀬で、しばらく並んで歩いた。


 夜の住宅街。街灯が等間隔に並んでいる。


 俺は昼間の授業を思い出した。


「一ノ瀬」


「なんだ」


「光速について、お前はどう解釈している」


 一ノ瀬は少し間を置いた。


「情報の上限速度が、システムの伝送限界と一致している。それは偶然の一致ではなく、設計上の制約だと思っている」


「同じ結論だ。そして——世界の端では光が遅くなる」


「ああ。端に近いほど、処理が限界に近づいている」


「つまり」


「端の向こうは、処理が追いつかない領域だ。データが存在しない、あるいは——別のシステムとの接続点」


 俺たちは同じ速度で同じ方向を向いていた。


 それが、この数日で初めてだと気づいた。剛と一ノ瀬が、完全に同じ結論に辿り着いている。


「明日、文化祭が終わったら話がある」


 一ノ瀬が、唐突に言った。


「何の話だ」


「……世界の端の向こうを、どうやって覗くかについて」


 俺は一ノ瀬を見た。


 一ノ瀬は前を向いたまま、淡々と歩いていた。


「ちひろが三十分止まっていたあの場所で、俺はある仮説を持っている。明日、文化祭が終わってから話す」


「今話せないのか」


「準備に時間がかかる。データを整理しておきたい」


 俺は頷いた。


「わかった。待つ」


 それだけだった。


 二人の足音が、夜道に静かに響いた。


 スマホが震えた。


【陽菜:あ、明日のお化け屋敷! ちーちゃん幽霊役ね! 衣装は私が用意するから!】


 続けて、


【陽菜:可愛い幽霊にしてあげる】


 俺は画面を見た。


 一ノ瀬も見た。


「……幽霊役か」


「見たのか」


「横から見えた」


「……」


「お前に幽霊は似合わない気がするが」


「なぜだ」


「幽霊は透明感が必要だ。お前は存在感が強すぎる」


 四十三歳のおじさんが「存在感が強すぎる」と言われたのは、初めてかもしれない。


「……それは、褒めているのか」


「事実を言っただけだ」


 一ノ瀬は前を向いたまま、また黙った。


 俺もスマホをしまって、前を向いた。


 夜道。街灯の光。遠くの踏切の音。


 明日は文化祭だ。


 そして——文化祭が終わったら、一ノ瀬が話す。


 世界の端の向こうを覗く方法を。


 ちひろが止まっていたあの場所で、何を見ようとしていたのかを。


 俺はその答えに、一歩近づいている気がした。


 夜空の星が、今夜も光速ぎりぎりで光を届けている。


 届けることを、やめない。


 それだけが、今の俺にできることだった。

今回もお読みいただきありがとうございます。

第一章前半も残すところあと一話です。

引き続きよろしくお願いします。

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