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1-10「文化祭と、世界の端っこ。」

文化祭まで、あと二週間だった。


 それを知ったのは、朝のホームルームで担任が「文化祭実行委員、最終確認します」と言った瞬間だ。


 黒板に書かれた名前のリスト。


 そこに、見覚えのない名前があった。


 一ノ瀬 蓮。


 俺は隣の席を見た。一ノ瀬は窓の外を向いたまま、微動だにしていない。


 斜め前の陽菜が、こちらを振り返った。にやりと笑った。


 やっぱりこいつだ。


――


 昼休み。


「なんで一ノ瀬が委員なんだ」


 購買前の廊下。俺は陽菜の隣を歩きながら、低い声で聞いた。


「え、だってほら。一ノ瀬くんって放課後いつもヒマそうじゃん」


「ヒマじゃない。観測してる」


「観測って何を」


「……いろいろだ」


「ヒマじゃん」


 反論できなかった。


「それに」と陽菜は続けた。「三人でいる時間が増えた方がいいかなって思って。ほら、チームなんでしょ、私たち」


 チーム。


 昨日の陽菜のその一言が、思ったより胸に刺さった。昨日の屋上で「正式に三人になった」と俺が思ったことを、陽菜も同じように感じていたらしい。


「……一ノ瀬は嫌がってたか」


「最初は『興味ない』って言った」


「だよな」


「でも私が『委員やってくれたらお礼する』って言ったら、しばらく黙ってから『わかった』って」


 俺は一瞬止まった。


「……そうか」


「一ノ瀬くん、なんだかんだ断れないよね」


 陽菜は得意そうに言った。


 俺は何も言わなかった。


 一ノ瀬が断れなかった理由が、「お礼」だけじゃないような気がしたからだ。でもそれを陽菜に言う必要はない。


――


 放課後の委員会。


 会議室に集まった委員たちが、出し物の最終案を詰めている。お化け屋敷に決まったのは先週で、今日は役割分担だ。


「暗幕班、小道具班、当日スタッフ班に分かれます。希望を——」


「一ノ瀬くんは暗幕班ね!」


 陽菜が即座に割り込んだ。


 一ノ瀬が陽菜を見た。無表情で。


「なぜ」


「力仕事だから。背が高い方がいい」


「……」


「異議ある人?」


 誰も手を挙げなかった。一ノ瀬は小さく息を吐いて、前を向いた。


 俺は議事録を取りながら、この光景を観察していた。


 (男女のコミュニケーションって、こんなんだったか……?)


 四十三年の記憶を掘り返す。自分が高校生だった頃。遠すぎて、もはや別人の話みたいだ。


 ただ一つだけわかるのは——一ノ瀬は嫌がっていない、ということだ。


 無表情の中に、何かが混ざっている。


 怒りでも困惑でもない、もっと静かな何かが。


――


 委員会が終わったのは、五時を少し過ぎた頃だった。


 陽菜が他の委員と話し込んでいる隙に、俺はそっと会議室を出た。


 目的地は、校舎の「端」だ。


 九話の夜から、ずっと気になっていた。世界の境界線。メモリの端。光速という「処理限界」が関係する場所。


 校舎の東棟から渡り廊下を抜け、体育館の横を通り、使われていない倉庫が並ぶエリアへ。


 人通りが途絶えた。


 足音だけが、静かなコンクリートに響く。


 解像度が、少しずつ落ちていく。


 壁の質感が粗くなる。床のタイルの目地が、ぼんやりとしてくる。空気の「密度」が、薄くなっていく感覚。


 俺はゆっくりと歩きながら、その変化を観察した。


 エンジニアとして考えれば、これは「メモリの使用率」の問題だ。システムは有限のリソースで動いている。精度の高い描画には処理能力が要る。だから誰も見ない場所は省く。


 でも今俺が向かっている「端」は、それより深い話だ。


 倉庫エリアの突き当たり。


 そこに、細い道があった。


 地図には載っているはずの道。でも実際に立ってみると——なんとなく、進みたくない。足が、自然に重くなる。


 引き返したくなる。


 俺は立ち止まった。


 この感覚は何だ。


 恐怖ではない。危険の予感でもない。もっと原始的な何か。システムが「これ以上は来るな」と言っているみたいな。


 俺はスマホを取り出し、コードを起動した。


 この場所の「変数」を読み取る。空気密度。光の減衰率。音の伝達速度。


 数値が流れる。


 そして——気づいた。


 光の速度が、少しだけ遅い。


 コンマ以下の、極めて微細な差。でも確実に、ここより奥に向かうほど、光の伝達が遅くなっている。


 光速の壁。


 相対性理論が言う「宇宙の最高速度」は、実はこのシステムの「最大伝送速度」だ。情報がこれ以上速く伝わらないのは、処理の物理限界だからだ。


 そして今俺がいる場所は——その「限界」に近づいている場所だ。


 世界の端。


 メモリの境界。


 この先に何がある?


 俺は一歩、踏み出した。


 足が重い。空気が、水の中を歩くみたいに抵抗する。視界の端が、少しずつ白くなっていく。


 もう一歩。


 耳の奥で、低い音が鳴り始めた。機械的な、一定のトーン。警告音みたいな。


 もう一歩——


「おじさん」


 背後から声がした。


 一ノ瀬だった。


 いつの間に来たのか、倉庫エリアの入口に立っている。表情はいつも通りだが、目に「急いでいた」形跡がある。


「……追いかけてきたのか」


「陽菜が『ちーちゃんどこ行ったか知ってる?』と聞いてきた。お前が会議室を抜けるのを見ていたから、来た」


「なぜ来た」


「ここが何かわかってるか」


 一ノ瀬は俺の後ろ——道の向こうを、真っすぐに見た。


「わかってる。端だ」


「そうだ。そしてここは——一度、ちひろが来た場所だ」


 俺は息を止めた。


「ちひろが?」


「記録に残っている。ちひろが消える一週間前。この場所で、三十分以上止まっていたデータがある」


 三十分。


 この重さの中で、三十分。


 ちひろは何を考えていた。何を見ようとしていた。


「一ノ瀬、この先に何がある」


「わからない。俺はここから先に踏み込んだことがない」


「なぜ」


「……ちひろが踏み込んで、消えたからだ」


 沈黙が落ちた。


 夕暮れの光が、倉庫の壁を斜めに照らしている。遠くで、部活の声が聞こえる。


 この場所だけが、世界から少しだけ切り離されたみたいに静かだった。


「今日は戻ろう」


 一ノ瀬が言った。


「準備なしで踏み込むのは得策じゃない。データを取ってからだ」


 俺は道の先を、もう一度見た。


 白くなっていく視界の向こうに——何か、ある。


 数字。光。横たわる人影の輪郭。


 まだ見えない。でも確かに、ある。


「……わかった」


 俺は踵を返した。


 一ノ瀬と並んで、校舎の方へ戻る。


 倉庫エリアを抜けると、陽菜が走ってきた。


「いたー! なんでこんなとこにいんの!? 心配したじゃん!」


「調べ物だ」


「調べ物って何を、こんな薄暗いとこで」


「世界の端っこ」


 陽菜は一瞬止まった。


「……また難しいやつ?」


「難しくない。学校の端っこに、世界の境界線があるかもしれない話だ」


「境界線」


「この先に何があるか、まだわからない。でもちひろが来ていた場所だ」


 陽菜の表情が、すっと変わった。


 さっきまでの「心配」の色が、別の色に変わる。


「……ちひろが来てたの、ここ」


「一週間前に」


「消える、一週間前に?」


「ああ」


 陽菜は倉庫エリアの方を、しばらく見つめた。


 夕日が、その横顔を赤く染めている。


「ちひろ、何を見ようとしてたんだろ」


 その問いは、俺への質問ではなかった。


 自分自身への、静かな問いかけだった。


 俺には答えられない。


 でも——同じことを、ちひろも考えていたんじゃないかと思った。


 この白くなっていく視界の向こうで、何かを見ようとして。


 三十分間、一人で立っていたんだと。


――


 その夜。


 俺は自分のノートに書き込んだ。


 「なぜ光より速く移動できないのか」。


 この問いの答えは、もう出ている。光速はこのサーバーの最大伝送速度だ。情報がそれ以上速く動けないのは、処理能力の限界だからだ。


 でも今日、その場所に立ってみて——新しい問いが生まれた。


 では、世界の端で光が遅くなるということは。


 処理能力が、そこで「限界」に近づいているということは。


 その向こうは——処理が追いつかない場所、ということか。


 システムの管轄外。


 データが存在しない空白。


 あるいは——別のシステムとの、境界。


 ペンを置いた。


 窓の外の夜空。星が光っている。


 その光は、何万光年も離れた場所から届いている。光速ぎりぎりで、ずっと届き続けている。


 ちひろが「境界の向こうに何かある」と感じていたなら。


 向こう側を目指していたなら。


 それは——外へ出るためじゃなかったかもしれない。


 外に、届けるためだったかもしれない。


 俺はメモ帳を開いた。


 「私を探して」という文字を、もう一度見た。


 今日より、また少しだけ——近い気がした。

お読みいただきありがとうございます。

第一章ももう直ぐ半分です。

次回からもお楽しみに。

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