1-14「陽菜は、知っていた。」
昨日の「嘘つき」が、頭から離れなかった。
手首に残る感触は、もうない。でも、あの一言の余韻だけが、ずっと胸の奥に居座っている。
陽菜は、わかっている。
俺が「怖くない」と言ったとき、それが嘘だと気づいている。それも一瞬で。
俺はいつも陽菜のことを「観察している」つもりだった。だが実際は——陽菜の方が、ずっと俺を観察していたんじゃないか。
朝、教室に入ると、陽菜はすでに席にいた。
「おはよ、ちーちゃん」
「おはよう」
「今日、雲多いね。雨降るかな」
いつもの会話。いつもの声のトーン。
俺は席につきながら、今日は陽菜を「観察する側」に回ることにした。
――
一限目。
国語の授業。教科書の朗読が回ってくる。
陽菜の番になった。
「では、橘さん」
「はい」
陽菜が立ち上がり、読み始める。
その声を聞きながら、俺は気づいた。
陽菜の声には、奇妙な「平坦さ」がある時がある。普段の喋り方は表情豊かで、声の高低差も大きい。でも、何かを思い出している時だけ——声が、わずかに平らになる。
今、そうなっている。
朗読が終わり、陽菜が席に着いた。
教科書の続きを目で追いながら、陽菜が小さく呟いた。
「……ちひろも、こういう朗読苦手だったな」
俺は手を止めた。
今、陽菜は「だった」と言った。
過去形を、使った。
――
昼休み。
俺は陽菜の言動を、もっと注意深く追った。
給食の時間。陽菜が誰かと話している。
「あ、これちひろが好きなやつだ」
好きなやつ。現在形。
さっきの「苦手だったな」とは、違う。
陽菜の中で、ちひろの記憶は——時々過去形になり、時々現在形のままになる。
まるで、ちひろが「過去の人」なのか「今もいる人」なのか、自分でも整理できていないみたいに。
「ねえ、ちーちゃん」
陽菜が、俺の視線に気づいた。
「なに、また見てる」
「いや」
「最近よく見てくるよね。観察日記でもつけてるの?」
「……つけてない」
「つけてそう」
陽菜は笑いながら、自分のパンを半分にちぎった。
「これ、食べる?」
「いい。お前が食べろ」
「半分でいいんだって。ちーちゃんすぐお腹いっぱいになるって最近わかってきた」
俺は黙ってパンを受け取った。
陽菜の観察眼は、こういう小さなことにも及んでいる。
四十三歳の胃袋と、十七歳の胃袋。後者の方が容量が小さい。それを陽菜は、もう知っている。
――
放課後。
今日は委員会も準備もない。一ノ瀬は図書室で送信コードの設計に集中している。
俺と陽菜は、二人で旧校舎の非常階段に来ていた。
夕方の光が、踊り場に差し込んでいる。
「陽菜」
「なに」
「聞きたいことがある」
陽菜は壁にもたれて、俺を見た。
「ちひろのこと、どこまで知ってる」
その瞬間、陽菜の表情が——一瞬、固まった。
ほんの一瞬だ。普通なら見逃すレベルの一瞬。
でも俺は、それを見た。
「……何のこと?」
「そのまま答えてくれ」
陽菜は俺を見た。
いつもの笑顔が、少しだけ揺れた。
風が吹いた。茶髪が揺れた。
しばらくの沈黙が続いた。
「……私さ」
陽菜が、ぽつりと言った。
「ちひろのこと、ずっと探してた」
俺は息を止めた。
「どこにいるのか、わからないのに。探してた。学校の中も、外も、休みの日も。理由なんてないのに、なんか……探さなきゃって思ってた」
「いつから」
「いつから……」
陽菜は少し考えた。
「ちひろが学校に来なくなったその日から。……でも変なんだよね」
「何が変だ」
「ちひろが『学校に来なくなった』って、私すぐに知ったの。誰かに教えてもらったわけじゃなくて。なんか、当たり前にわかった」
俺はその言葉を、胸の中で繰り返した。
当たり前にわかった。
誰かに教えられるより前に、知っていた。
「で、それから毎日、なんとなく『今日は見つかるかな』って思ってた。意味わかんないでしょ」
陽菜は自分で言って、小さく笑った。
でも、目は笑っていない。
「私さ、ちひろのこと大好きだったんだ」
「だった」。また過去形。
でも今度は、悲しい過去形じゃなかった。
「今も大好きだよ。だから——」
陽菜は俺を見た。
「探してる。理由はわからないけど、探してる」
俺は何も言えなかった。
陽菜の「探している」という言葉は、俺の目的と同じだ。
でも、立場が違う。
俺は「ちひろを探す理由」を、はっきり言葉にできる。メモ帳。653。返信。エンジニアとしての分析。
陽菜には、その全部がない。
ただ——「探さなきゃ」という、根拠のない感覚だけがある。
それは、もしかしたら——
俺よりも、ずっと「正しい」感覚なんじゃないか。
「陽菜」
「なに」
「お前が『知ってた』のか、『感じてた』のか、まだわからない。でも——」
俺は言葉を選んだ。
「お前もちひろを待ってる人間だ。それだけは、わかった」
陽菜は俺を見て、それから、ふっと笑った。
今度はちゃんとした笑顔だった。
「待ってるんだ、私たち」
「そうだな」
「じゃあ、見つけたら一番最初に教えてね」
「ああ」
「絶対だよ」
「わかった」
陽菜は満足そうに頷いて、踊り場の窓から空を見上げた。
夕暮れの色が、少しずつ濃くなっていく。
――
その夜。
俺はノートに、今日のことを書き込んだ。
陽菜の言葉の中に、過去形と現在形が混在していること。
「学校に来なくなったその日から、当たり前にわかった」という感覚。
これは——記憶の問題かもしれない。
陽菜の中で、ちひろに関する記憶が、何かしらの形で「不安定」になっている。
まだ証拠はない。でも、これは覚えておくべき手がかりだ。
俺はペンを置いて、窓の外を見た。
夜空。星。
陽菜もまた、ちひろを待っている。
理由のわからない確信を持って。
俺たちは、似ているのかもしれない。
「探す理由」を言葉にできる俺と、できない陽菜。
でも、向いている方向は、同じだ。
三人で。
いや——
もしかしたら、もっと多くの「待っている人間」が、この世界にはいるんじゃないか。
その問いが、新しく頭に浮かんだ。
答えはまだ、出ない。
でも、書き留めておく価値はあった。
お読みいただきありがとうございます。
また次回もお楽しみに。




