第64話 幽世にて
「ほへえ……」
間の抜けた声が、口から洩れる。
トルクは呆然としたまま、一歩を踏み出した。足の裏に、砂利を踏んだ感触が走る。
「なんだこれ? 村、か……?」
――そこには見渡す限りに、朴訥とした空間が広がっていた。
少し離れた場所から川のせせらぎが響き、青々と茂った木が、葉を揺らしている。
トルクの足元から伸びた先には、あぜ道があり、田畑のようなものさえ見えた。
そして、その周りには点々と――小さな家屋がある。
「ふえええ……すっげえなあ。あの寝室の向こうによ、こんなモノがあるなんて」
晴れ渡った青空からは、緩やかな日差しが差し込んでいる。
そう。ここが屋内であると、誰が信じられようか。
「はい、ここは特別な場所でございまして。私も訪れるのは、これで二度目となりますね」
トルクの背に、涼やかな声が向けられた。
振り向くと、三歩後ろで控えていたケーレが、うっすらと口元を緩めている。
「え、そうなんですか!?」
「はい。申し上げました通り、今回は特別でございますゆえ――あの、トルクさま」
ちょん、と。微かに首を傾げてケーレは微笑む。
「改まった口調をなさらないで、結構でございますよ。どうぞ自然体でお話しくださいませ」
白い肌が、日差しを受けて煌めくように色付く。柔和な朱い眼差しを受け、トルクは思わず後ずさってしまう。
「あ、そそ、そうっすか!? いや、えっと、でも、あのっ!」
「これから、私たちはここで一年を共にするのですから。遠慮はご無用になさってくださいまし」
すっと、細くしなやかな指が伸び、トルクの裾をつまむ。
「ははははは、はひっ!!」
それだけで。たったそれだけで、トルクはもうどうして良いか分からなくなってしまう。
心臓がバクバクと音を立てて響き、膝ががくがくと震えだす。
一年。そうだ、そういう約束であった。少し前に、彼女と交わした言葉が脳裏に蘇る。
(こ、こんなんで俺、大丈夫なのかなあ? ここで、こんな奇麗な人と一緒に、一年も……? 嘘だろ……!?)
☆ ☆ ☆ ☆
「む、むむむ無理!! そんな、いきなりは無理っす!!」
寝所に二人きりとなり、そうして深々と頭を下げた姫巫女に対し、トルクが返したのは――明確な拒絶であった。
もう、わけがわからない。なんで勇者がそんな事をするのか。というか合意の行為なのか。
混乱する頭で捲くし立てるトルクに、ケーレは落ち着いた声でひとつひとつと説明をしてくれた。
――次代を担う姫巫女を、ケーレが産まねばならないこと。
――前回の祭儀でそれが叶わなかったため、今回は特別な場所で産み育てねばならないこと。
――聖剣に選ばれた勇者が……それを為さねばならない、こと。
「え? 聖剣って今まで抜かれた事がないんじゃ」
「はい、少しばかり語弊がございまして。本来は聖剣を抜かずとも、その刀身を揺るがすだけでも十分なのです」
そうして、特別な素質を持った男性――すなわち『勇者』の子種を受け、次代に血を残す。
これまでも、長い長い……森人である彼女をして久遠ともいえる時を繋ぎ、そうして祭儀を続けてきたのだと、ケーレは話してくれた。
「ですので――さあ、どうぞ私めにお情けをくださいませ」
ケーレの声が、甘く甘く蕩けるように脳髄を揺らす。
くらりと頭が傾き、ゆっくりとトルクの右手が伸びる。
誘われるように、招かれるように。
ふらふらと体が震え、指先が薄衣に触れた――その時だった。
「や、やっぱ、だめだっ!!」
理性と根性を総動員して、指をそこから引きはがす。
柔らかな温もりを求めるように、トルクの五指が別の生き物のように蠢くも、それをもう片方の手で押さえつける。
「お、お互いまだ、なんにも知らないのに! こんなの、早いっていうか! あのっ!」
世にも情けない事を吐き出しながら、トルクは必死に床へと這いつくばった。そうしなければ、目の前の美女に向かって飛びついてしまいそうだったから。
「……やはり、効きにくいのですね。流石は聖剣を抜いたお方」
「へ?」
泣きそうになりながら、トルクは顔を上げた。
「では、互いを知る時間があればよろしいのでしょうか」
「あ、えっと……は、はい!」
では、と。ケーレは居住まいを正す。
ベッドの傍に置いてあった鈴に手を伸ばし、それを小さく振った。
「……お呼びでございましょうか、ケーレ様」
すぐさまに現れたのは、彼女の侍女らしき女性。
トルクが入ってきた扉をすうっと開けて、そのまま恭しく跪いた。
「大婆様にお伝えください。準備を、お願いしますと。それと着替えも」
「もう……でございますか?」
「ええ」
微かに目を瞬かせ、侍女がトルクへそっと視線を向ける。
それを取り成すようにケーレが片手を上げて、にこりと微笑んだ。
「それでは、トルクさま。隔離世の間へ、参りましょう」
「へ? かくり……?」
「はい、外界から文字通りに隔離された空間でございます。ここでの一日が、あちらでは一年へと引き延ばされるのです」
途方もない事実をさらりと述べて、姫巫女は紅い瞳を輝かせた。
その穏やかな眼差しが、トルクを優しく包みこんでゆく。
「そこで、今から一年間……私とどうか、共に暮らしを営んでくださいませ」
☆ ☆ ☆ ☆
(……そのまま、流されるように来ちまったけど、いいんかなこれ? キオ達にも何も言わずに来ちまったし)
涼やかに微笑むケーレを見ながら、トルクはため息を吐き出しそうになるも、ぐっと堪えた。
今のケーレは、あの寝所で見たような薄着ではない。いつもの白装束姿だ。
陽光の中に佇むその姿は、やはり信じられないほどに美しい。透き通るような白い肌と、相反するような紅い瞳が目に眩しい。ただそこに在るだけで、まるで神話の光景もかくや、という佇まいだ。
(こんなに綺麗な人が、俺と子作りだって? はは、なんだそりゃ)
まさに夢か、それとも幻か。
判然付かず、呆然としていると――不意に、微かな地響きが耳を打った。
「なん、だ……!?」
そちらを振り向き――トルクは唖然と口を開いてしまう。
目に入ったのは、大きな人型の『なにか』であった。丸太ほどの腕を揺らしながら、ぎこちない仕草で前へ前へと進んでいる。
「まさか……ゴーレム!?」
「はい、その通りでございます」
頭は丸く、胴は四角い。不格好な人形めいたそれは、古代の秘術で作り出されたという、魔導具の一種に相違ない。
茶色の巨人は、どすんどすんと音を立て、田んぼに向かって歩き出してゆく。
「あの子たちが、ここを整えてくれているのですよ」
「ゴ、ゴーレムが……? って、ホントだ!? いっぱい居るぞ!?」
わらわらと、まるでケーレが現れたのを出迎えるように、魔導人形たちは動き出す。
川辺にしゃがんで水を汲んだり、家の前を箒で掃いたり、せっせと田んぼへ何かを撒いたり。
あまりに生活感の溢れる光景に、トルクはまたもや呆然としてしまう。
ゴーレムといえば、遺跡の守護者として有名だ。強力な戦闘能力を持ち、物によっては簡単な魔術さえ行使する。
それが、どうだ。目の前でのんびりと畑仕事なんぞに勤しんでいる。
「さあ、トルクさま。お好きな家をお選びくださいませ」
ケーレの声が、耳から甘く甘く染みとおっていく。
「そこが――私たちがこれから情を交わします、閨になりますゆえ」
今度こそ、もう限界であった。
膝が折れる。尻が地面に着く。両手が横に投げ出される。
「はは、はははははは……」
乾ききった笑い声が、青空へ溶け込むように消えていった。




